九七式司令部偵察機
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九七式司令部偵察機(きゅうななしきしれいぶていさつき)は、大日本帝国陸軍の複座偵察機。陸軍が設計・製造を三菱重工業に特命した。1937年ロンドンへ飛んだ朝日新聞社の神風号は、この機種。
単発、片持式低翼単葉、固定脚。
試作1号機は、1936年5月、2号機は1937年完成し、同年5月、陸軍最初の司令部偵察機として正式採用された。略称は九七式司偵で、キ番号は15。さらに、発動機を瑞星空冷式復列星形14気筒に強化し、1939年9月、九七式二型司令部偵察機(キ15-II)とした。
海軍もこの型を採用したが、のちに発動機を栄12型空冷式復列星形14気筒に換装し、それぞれを九八式陸上偵察機一一型 (C5M1)、九八式陸上偵察機一二型 (C5M2) とした。50機使用した。
陸軍の九七式司偵は、1936年から1941年まで437機生産された。
日中戦争で活躍した。その高速度で中国戦闘機を振り切り、多くの情報をもたらした。第二次世界大戦では次第に犠牲が増え、一〇〇式司令部偵察機に換わった。特別攻撃機として使われた機材もあった。
連合国のコード名は (Babs) であった。
[編集] 主要諸元(キ15-II)
- 全長:8.70メートル
- 全幅:12.00メートル
- 最高速度:時速450km
- 航続距離:2,400km
- 兵装:7.7mm機関銃×1
[編集] 神風号
朝日新聞社は、1937年5月12日ロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画し、キ15の試作2号機を払い下げるよう、陸軍を説得した。
当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、パリ-東京100時間を賭けるフランスの試みも、失敗を繰り返していた。そして、東京からロンドンへの飛行は、逆風である。
愛称には、公募した中から「神風」が選ばれた。
声援歌も公募され、当選作が日本コロムビアから発売された。
所要時間をあてる懸賞も行われ、ピタリの人が出た。
乗員は、飯沼正明飛行士 (1912-1941) と塚越賢爾機関士 (1900-1943)。一度悪天候で引き返したのち、4月6日早暁立川飛行場を離陸。台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バクダッド、アテネ、ローマ、パリと着陸し、現地時間の9日午後ロンドンに着陸。立川離陸後94時間17分56秒で、給油・仮眠をのぞく実飛行時間は、51時間19分23秒であった。
日本中が固唾を飲んだ。世界中が注目し、デイリー・エクスプレス紙は、8日付朝刊のトップに神風号の接近を報じた。ロンドンのクロイドン空港も、その前のパリのル・ブルジュ空港も、人波にあふれた。国産機による初の大飛行に、国中が湧いた。世界中が賞賛した。フランス政府は二人に、レジオンドヌール勲章を贈った。
神風は12日、折から大西洋航路で到着する秩父宮夫妻を空から迎えてのち、ヨーロッパの各地を親善訪問した。そして、5月12日の戴冠式の記録映画を積んで、同14日ロンドンを離陸し、21日大阪を経て羽田に着陸した。
神風をたたえる歌のレコードが、7月に日本ビクターから発売された。その月に日中戦争が始まった。イギリスを敵にまわす太平洋戦争開戦直後の1941年12月11日、飯沼飛行士は、プノンペンの飛行場で事故死した。そして、塚越機関士は、1943年7月7日、シンガポールからドイツへと飛び立ったA-26 (記録機)2号機に搭乗し、インド洋上で消息を絶った。
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