伯邑考
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伯邑考(はくゆうこう、生没年不詳)は周の王族。文王の長子で武王の長兄。一説によると、姓は姫で諱は邑という。つまり、“姫邑”である。
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[編集] 略歴・人物
[編集] 概要
また、伯は当然、正嫡の長男の意味である。考は“孝”とも捉えて、本来は親孝行の意味で、後世では「伯邑考」という名で広まったといわれる。『史記』でもその影響が見られるという。
[編集] 生涯
歴史書『史記』「周本紀」によると、彼は早世したとか、子孫はどうなったのか不肖である…などしか記されておらず、事績などは未だに詳しく明らかにはされてはいない。
また、ある説では父の文王が長男の伯邑孝では乱世の太子に向いていないという理由で、廃嫡にして次男の発(武王、或いは仲発)なら乱世の太子に最適だと称して指定したという。廃嫡にされた伯邑考は、やがて悶死したというが真偽の程は定かではない。
[編集] 伝承
『封神演義』によれば、琴の名手であったといわれている。父で後に文王となる昌が殷によって捕らえられ幽閉されたとき、父の釈放を願い財宝をもって朝歌に出向いた。しかし殷王帝辛に献上した猿が愛妾妲己を襲ったために隗肉刑に処せられ肉餅(ハンバーグのようなもの)にされて昌に与えられた。昌は調理された息子を食べたことによって釈放された。