佐々木高秀
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時代 | 鎌倉時代末期 - 室町時代初期 | |||
生誕 | 嘉暦元年(1328年) | |||
死没 | 元中8年/明徳2年10月11日 1391年11月7日 |
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官位 | 従四位下大膳太夫 | |||
幕府 | 評定衆、侍所司、飛騨守護 | |||
氏族 | 宇多源氏、佐々木氏、京極氏 | |||
父母 | 道誉 | |||
兄弟 | 秀綱、秀宗、高秀 | |||
子 | 高詮、秀満、高久 |
[編集] 生涯
嘉暦元年(1328年)、室町幕府の成立に大きく貢献する佐々木道誉の三男として生まれ、興国6年/康永4年(1345年)に行われた後醍醐天皇を弔う天龍寺の法要に参列している。
その後、長兄の秀綱は正平8年/文和2年(1353年)に、次兄の秀宗は正平3年/貞和4年(1348年)にそれぞれ戦死したため、佐々木氏支流京極氏の嗣子となる。
正平16年/康安元年(1361年)には侍所司を務めており、父の諫言により失脚し南朝方として京に攻め入ろうとしていた細川清氏と、摂津国忍常寺において500余騎を持って対するが、戦わずにこれを通した。
正平20年/貞治4年(1365年)、佐々木一門の宗家である六角氏の当主、六角氏頼が唯一の跡取を早世により失ったため、高秀は子の高詮を養嗣子として六角氏に出す。しかし氏頼は、四年後に新たに亀寿丸、後の六角満高をもうけ、その翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、細川頼之が管領を務めていた幕府は、高詮に対して、亀寿丸が成人するまでの後見役を命じ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じて争いを収めるが、わずか7年後の天授3年/永和3年(1377年)に高詮は近江守護職を解かれる。この一件は高秀と細川頼之との確執を深め、後の康暦の政変へと繋がっていったと言われている。
なおこの間、正平23年/応安元年(1368年)に評定衆へと加わり、従四位下大膳太夫に任ぜられ、文中2年/応安6年(1373年)には父が亡くなり家督を継いでいる。
天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、美濃の土岐頼康と共に細川頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、将軍足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。そうした中、鎌倉公方の足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許し、高秀は京に上り服従を誓うが、その翌日、斯波義将、土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。
元中7年/明徳元年(1390年)に義満の命により、美濃の土岐康行を討ち、翌年の元中8年/明徳2年(1391年)に64歳で亡くなった。
和歌を好み新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集に入集している。
長男の高詮を嫡子とする。三男の高久には近江国尼子郷を与え、高久は後に出雲の戦国大名となる尼子氏の祖となる。
[編集] 史料
- 太平記
- 西讃府史