征夷大将軍
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征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、日本の令外官の将軍職の一つ。奈良時代から平安時代には東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。鎌倉時代以降江戸時代に至るまでは、武家の棟梁が位に就き、子孫に世襲する形を取り、朝廷からの形式的任命の形を取ったものの実質的には天皇家を押さえた日本の君主であった。略して将軍、公方、大樹、大樹公、御所などとも呼ばれた。
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[編集] 歴史
[編集] 奈良・平安時代
「征夷」とは、「夷を征する」の意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の一つで、太平洋側から進軍する軍隊を率いた。日本海側を進軍する軍隊を率いる将軍は鎮狄将軍(ちんてきしょうぐん)と呼ぶ。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。
なお、当初は「征夷」と呼ばれていたが、宝亀以降「征東」となり、延暦12年以降再び「征夷」となる。「征夷将軍」の初見は、養老4年9月29日に任命された、多治比縣守であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年12月7日に辞見した紀古佐美である。将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節大将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「使」はまた「将軍」とも呼ばれており、これが征夷大将軍の初見とする考えもあるが、なお問題は複雑である。
大伴弟麻呂の下で征東副使・征夷副使だった坂上田村麻呂は、延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、その地を征服した。実質的な意味では、田村麻呂が初代征夷大将軍とも考えられる。
その後文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に「大」なしの征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日 蝦夷征伐の終了を奏上、鎮守将軍(府なし)には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には、また「大」なしの征夷将軍に復帰している。
なお、征夷大将軍の下には征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹などの役職が置かれた。
[編集] 鎌倉時代
源頼朝は当初、関東武士団の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位は何も無かった。即ち、当初は平将門等と同じ地方叛乱の首領でしかなかったのである。その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平家政権・木曾義仲・奥州藤原地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたと思われる。
- 平家政権の段階では、元々当時は公家の地位が高かったため、平氏の中の平家は公家の一つになることで栄華を誇った。これに対し頼朝は武士の地位そのものの向上に向けて動き出した。そこで、朝廷に対して、武士の自主的統治権を確立するために相応の地位を求めていくようになる。
- 中央・京都に進出した木曾義仲は、過去に存在した「征夷大将軍」という官職に任官した。征夷大将軍の地位は東方の勢力を成敗する使命を暗示するもので、これは後白河法皇が義仲を源頼朝に対抗させる意図があったが、義仲政権は三日天下に終わった。
- 当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を獲得し自らの居所を「柳の御所」「柳営」と称した。柳営とは幕府の別名である。鎮守府将軍は、軍政という形での地方統治権が与えられており辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の司令官という性格を持つが故に京都在住の必要が無く、地方政権の首領には都合が良かった。これは頼朝政権の格好の雛形(モデル)となったろう。
1190年、頼朝は、右近衛大将(右大将)に任官され、自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、関東での独立を指向するには不向きだった。そこで頼朝は右大将を辞任し、前右大将としてその特権を保持した。「前右大将」という名目を鎌倉政権の歴代首長の地位としていく構想もありえなくはなかったと思われるが、右大将では形式上の官位こそ高いが、すでにライバルだった木曾義仲が征夷大将軍だったことに比べると中央防衛軍司令官という性格上奥州征伐を積極的に支援する地位ではなく、また奥州藤原氏の鎮守府将軍と比較すると「武士の自治」という重要な積極的要素が欠けていた。
そこで頼朝が注目したのがかつて木曾義仲が就任した「征夷大将軍」という官職であった。これは軍政(地方統治権)という意味では鎮守府将軍と同様であり、かつ東方の敵(この場合は奥州藤原氏)を征伐する上で格好の官職でもあった。
つまり、
を、全て纏め上げて公的に担保するのが征夷大将軍職であった。
- 参考文献:中公新書『征夷大将軍』
[編集] その後の武家社会
鎌倉時代以降、源頼朝が「征夷大将軍」の位を得て幕府を開いてのちは、武家が日本の政治を支配するようになり、それにともない「征夷大将軍」は武家の最高権威であり、実質的な日本の君主(国王、皇帝)となった。元々は朝廷が与える官職だが、実際の任命は、建武の新政の時期を除き、実力で武家の頂点に立った者の要請によった。形式的に言えば、朝廷が正規の政府で幕府は地方における臨時の政府であると公家の間では認識していたが、武家の間では必ずしもそうであるとは限らなかった。
[編集] 歴史上存在した俗説
「武家の棟梁となる将軍に就く家柄は、清和源氏に連なる家系に限る」という認識が武家の間でまことしやかに慣例となっていた。織田信長は織田家が平氏の系図であったため「征夷大将軍」にはなれず、また徳川家康は「征夷大将軍」に任命されるに当たっては、系図を偽造して清和源氏と称したというエピソードも残っている。しかしながら、実際に織田信長に「征夷大将軍拝命」の勧めの勅使が来ていることもあり(これは源氏でよいなら平氏でも、とも理解できる。もちろん、源氏、平氏より貴種の藤原氏も同様)、現実的には源氏でなければ将軍になれないというのは根拠がない。また、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、現実に清和源氏に限られていない。
そこで昨今取りざたされている説では「何らかの形で東国を抑えている者」が「征夷大将軍」になるための条件であったと言う説である。豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、徳川家康に小牧・長久手の戦いで敗れたためであると言う説もあるが、関白の方が征夷大将軍より位が上だったため、新幕府の創始は不可能だが、秀吉は将軍には興味がなかったと言う推測も可能である。織田信長が征夷大将軍を望んでいたか否かは諸説あり、断定できない。ただし、征夷大将軍拝命の勅使が来るための条件となったのは、信長が東国の大名である武田氏を滅ぼしたこと、また、関東の北条氏を実質的に臣従させたことなどが根拠(名目)となっていたのではないかとも推察される。
一方朝廷の公家の間でもかつては、とある人物の家柄が源氏と平氏のいずれに連なるかにこだわり「公家に近しい平家」「御しがたい武家の源氏」と見なす風潮があった。またこれに根ざして、源氏と平氏あるいは源家と平家が日本の政権を交互に執るという思想も生まれた(源平交代思想)。
なお、平知盛が征夷大将軍に任命されたとの俗説もあるが、確証はない。
[編集] 歴代の征夷大将軍
順番 (幕府内) |
人名 | 在職年 | 備考(官位は、将軍就任時と退任時。及び没後の贈官位) |
---|---|---|---|
1 | 大伴弟麻呂 | 793-794? | 従四位下→従三位 |
2 | 坂上田村麻呂 | 797-811? | 陸奥出羽按察使従四位下陸奥守→大納言正三位 |
3 | 文屋綿麻呂 | 813-816 | 征夷「大」将軍。参議従三位→参議従三位 |
- | 藤原忠文 | 940 | 征東大将軍だが、異伝あり。参議正四位下→参議正四位下 |
4 | 源義仲 | 1184 | 従四位下伊予守→従四位下伊予守 |
5 (1) | 源頼朝 | 1192-1199 | 1195年辞任の説あり。正二位前権大納言→正二位前権大納言 |
6 (2) | 源頼家 | 1202-1203 | 従二位左衛門督→正二位左衛門督 |
7 (3) | 源実朝 | 1203-1219 | 従五位下→右大臣正二位左近衛大将 |
8 (4) | 藤原(九条)頼経 | 1226-1244 | 摂家(藤原)将軍。九条道家の子。正五位下右近衛権少将→正二位前権大納言 |
9 (5) | 藤原(九条)頼嗣 | 1244-1252 | 従五位上右近衛権少将→従三位左近衛中将 |
10 (6) | 宗尊親王 | 1252-1266 | 皇族将軍。後嵯峨天皇の皇子。三品→一品中務卿 |
11 (7) | 惟康親王(惟康王→源惟康→惟康親王) | 1266-1289 | 従四位下→二品 |
12 (8) | 久明親王 | 1289-1308 | 後深草天皇の皇子。三品→一品式部卿 |
13 (9) | 守邦親王 | 1308-1333 | 不詳→二品 |
14 | 護良親王 | 1333 | 二品兵部卿→二品兵部卿 |
15 | 成良親王 | 1335-1336 | 上野太守四品→上野太守四品 |
16 (1) | 足利尊氏 (高氏→尊氏) | 1338-1358 | 正二位権大納言→正二位権大納言。贈従一位左大臣。追贈太政大臣。 |
17 (2) | 足利義詮 | 1358-1367 | 参議従三位左近衛中将→正二位権大納言。贈従一位 |
18 (3) | 足利義満 | 1367-1394 | 従五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣。将軍辞職後、太政大臣。 |
19 (4) | 足利義持 | 1394-1423 | 正五位下左近衛中将→従一位前内大臣。贈太政大臣 |
20 (5) | 足利義量 | 1423-1425 | 正五位下右近衛中将→参議正四位下右近衛中将。贈従一位左大臣 |
21 (6) | 足利義教(義宣→義教) | 1429-1441 | 参議左近衛中将従四位下→従一位前左大臣。贈太政大臣 |
22 (7) | 足利義勝 | 1442-1443 | 正五位下左近衛中将→従四位下左近衛中将。贈従一位左大臣 |
23 (8) | 足利義政 (義成→義政) | 1449-1473 | 正五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣。贈太政大臣 |
24 (9) | 足利義尚(義尚→義煕) | 1473-1489 | 従五位下左近衛中将→従一位内大臣右近衛大将。贈太政大臣 |
25 (10) | 足利義材 (義材→義尹→義稙) | 1490-1493 | 従四位下右近衛中将→参議右近衛中将従四位下。 |
26 (11) | 足利義澄(義高→義遐→義澄) | 1494-1508 | 正五位下左馬頭→参議従三位左近衛中将。贈太政大臣。 |
27 (10) | 足利義稙 (義材→義尹→義稙) | 1508-1521 | 再任。従三位権大納言→従二位権大納言。贈太政大臣従一位 |
28 (12) | 足利義晴 | 1521-1546 | 正五位下左馬頭→従三位権大納言右近衛大将。贈従一位左大臣 |
29 (13) | 足利義輝 (義藤→義輝) | 1546-1565 | 従四位下左馬頭→参議左近衛中将従四位下。贈従一位左大臣 |
30 (14) | 足利義栄 | 1568 | 従五位下左馬頭→従五位下左馬頭 |
31 (15) | 足利義昭 (義秋→義昭) | 1568-1573 | 実は出家時の1588年までは名目上在任。参議左近衛中将従四位下→従三位権大納言。将軍辞職後、准三宮 |
32 (1) | 徳川家康(松平元信→松平元康→徳川家康) | 1603-1605 | 従一位右大臣→従一位前右大臣。将軍辞職後、太政大臣。贈正一位 |
33 (2) | 徳川秀忠 | 1605-1623 | 内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将。将軍辞職後、太政大臣。贈正一位 |
34 (3) | 徳川家光 | 1623-1651 | 内大臣正二位右近衛大将→従一位左大臣左近衛大将。太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位 |
35 (4) | 徳川家綱 | 1651-1680 | 内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
36 (5) | 徳川綱吉 | 1680-1709 | 内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
37 (6) | 徳川家宣(綱豊→家宣) | 1709-1712 | 内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
38 (7) | 徳川家継 | 1712-1716 | 内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
39 (8) | 徳川吉宗(松平頼方→徳川吉宗) | 1716-1745 | 内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位。贈太政大臣正一位 |
40 (9) | 徳川家重 | 1745-1760 | 内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位。贈太政大臣正一位 |
41 (10) | 徳川家治 | 1760-1786 | 内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
42 (11) | 徳川家斉 | 1787-1837 | 内大臣正二位右近衛大将→従一位太政大臣。贈正一位 |
43 (12) | 徳川家慶 | 1837-1853 | 従一位左大臣左近衛大将→従一位左大臣左近衛大将。贈太政大臣正一位 |
44 (13) | 徳川家定 (家祥→家定) | 1853-1858 | 内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
45 (14) | 徳川家茂(慶福→家茂) | 1858-1866 | 内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将。贈太政大臣正一位 |
46 (15) | 徳川慶喜 | 1866-1867 | 正二位権大納言右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将。明治時代、従一位。公爵。勲一等旭日大綬章。贈旭日桐花大綬章 |