佐伯男
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佐伯男(さえきのおとこ、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「さへきのをとこ」。姓(カバネ)は連、後に宿禰。672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため筑紫国に遣わされたが任務に失敗した。後に大倭守、従五位上。
壬申の年(672年)の6月下旬、大海人皇子(天武天皇)の挙兵を知った近江宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。佐伯連男はこのとき筑紫大宰の栗隈王に遣わされた。出兵を命じたものの、栗隈王が以前大海人皇子に従っていたことから、彼もまた背くかもしれないと大友皇子は疑っていた。「従わない様子があったら殺せ」というのが、佐伯男が受けた指示であった。
符(命令書)を受けとった栗隈王は、出兵を断った。筑紫国の務めは国外への備えであり、守りを空けたときに変事があったら国が傾くというのが、栗隈王が述べた理由であった。このとき、栗駒王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が剣を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った。
帰還後の活動については記録がない。乱の後に赦されたと考えられる。
佐伯連は、天武天皇13年(684年)12月2日に宿禰の姓を与えられらた。
和銅元年(708年)3月13日、従五位下の佐伯宿祢男は、大倭守(大和国の守)に任命された。翌2年(709年)9月2日に、従五位下から従五位上に昇進した。このときも大倭守であった。