佐藤浩貴
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名前 | |
本名 | 佐藤浩貴 |
愛称、a.k.a. | ヒロ |
カタカナ | サトウヒロタカ |
原語名 | Hirotaka SATO |
基本情報 | |
身長 | 203cm |
体重 | 105kg |
足のサイズ | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県 |
誕生日 | 1981年12月8日 |
血液型 | O型 |
選手情報 | |
在籍チーム | 大阪エヴェッサ |
ポジション | C |
背番号 | 11 |
垂直跳び | |
最高到達点 | |
代表歴 | |
・ユニバーシアード(U-24)日本代表 | |
・日本A代表 |
佐藤 浩貴(さとう ひろたか, 1981年12月8日 - )は、神奈川県出身で、日本初のプロバスケットボールリーグであるbjリーグの大阪エヴェッサに所属するプロバスケットボール選手。身長203㎝、体重105㎏、ポジションはセンター。恵まれた体格と共に、リバウンド(特にオフェンスリバウンド)に非凡のセンスを持つビッグマン。尊敬している選手は元・NBA選手のデニス・ロッドマン。父親はミュンヘン五輪の男子バレーボール日本代表で金メダルを獲得した佐藤哲夫。
[編集] キャリア概観
ミュンヘン五輪のバレーボール日本代表で金メダリストの佐藤哲夫の息子として生をうける。
小・中学校時代は特にスポーツをせず、帰宅部で学校から帰ってテレビゲームでよく遊んでいた。この頃から既に身長はグングン伸び、中学3年生時には身長190cm、体重100kgにまで成長した。
高校は相洋高校に入学。1年でバスケットを始める。バスケットを始めた理由はダイエットのため。「バスケットはきつい競技だから、やせられるかなと」。始めた当初は、部活に行くのが嫌で仕方なかったが、それでも「ダイエットのためだ」と自分に言い聞かせ、途中で投げ出すことはしなかった。高校2年の夏までには、なんと20キロの減量に成功。この頃からバスケットの楽しさに目覚める。しかし、高校のバスケットボール部は全国大会はおろか、関東大会にも出場できない弱小高校だった。
それでも、その恵まれた体格と運動能力を見込まれて、大学は強豪の専修大学に入学。「使っていれば育つ」という新関光一監督の考えのもと、1年生からスタメンを任された。が、最初の頃は何も出来ず、先輩からは「お前は使えない」などの容赦のない言葉を浴びせられたが、大学2年生のインカレでは、五十嵐圭、伊藤俊亮らを擁する中央大学に敗れるも、3位決定戦では、木下博之、鵜澤潤らを擁するに日本体育大学を破り、見事3位入賞。この年のオールジャパンに出場する。大学3年生時には、中川和之、中川直之、波多野和也、長澤晃一、青木康平らと共についにインカレで優勝を果たす。大学4年時には、日本A代表監督に就任したジェリコ・パブリセヴィッチ氏に見込まれ日本A代表候補選手に選ばれ、学生ながら欧州遠征に参加。帰国後、[[日本A代表としてキリンカップ2003に出場]]し、アテネオリンピックアジア予選日本代表に学生で唯一選出される。関東学生一部リーグ戦では優勝。この年韓国で行われたユニバーシアードの日本代表(U-24)メンバーに大学でチームメイトの波多野和也、大宮宏正らと共に選出され、出場。大学4年の最後の冬には、第1回スプリングキャンプメンバーにも選出される。しかし、卒業を控えた2003年の1月に練習中に左アキレス腱断裂という大怪我に見舞われてしまう。
大学卒業後は、スーパーリーグの松下電器に入団。この年の日本A代表候補に再び選出されるも、この左アキレス腱断裂の怪我のためやむなく辞退。松下電器の最初のシーズンも、怪我のため全く出場できずに過ごす。 2005年には日本A代表に復帰し、キリンカップ2005に出場するも、怪我が響き2005-2006シーズン終了後には松下電機からカットされてしまう。
2006年、bjリーグ合同トライアウトを受験し、大阪エヴェッサよりドラフト1巡目4位で指名を受け入団。