元稹
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元稹(げん・しん、779年(大暦14年) - 831年(大和5年))は中国・唐代中期の詩人、小説家、宰相。
[編集] 略伝
字は微之。河南洛陽(河南省洛陽市)の出身。後魏の王室の子孫であったがすでに零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格し左拾遺となる。監察御史を歴任し、ある事件に連座して江陵に左遷されたが、虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎同平章事に進んだが、やがて宰相を罷免され都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した。その作品はすべて時代に先駆けた尖鋭な感覚と才能に支えられ、伝統からの解放を試みたものである。『元氏長慶集』60巻に作品のほとんどが収められている。
[編集] 逸話
元稹が詩人・李賀の才名を聞いて訪問したところ、李賀はすぐに会おうとせず家僕に「明経(元稹が明経第一の及第者であったため)何事あって李賀をみるか」と問わせ、憤慨させたことがあった。その後、李賀が進士の試験に応じようとしたとき、元稹は李賀の父の諱が「晉」であり「進」と同字であることを理由として、試験を受けさせることを許さなかった。韓愈がこの件について「諱の辯」を書いて李賀を応援しても叶わなかった、というところから当時の元稹の権勢と執拗さをみるべきだろう。
この元稹と人格円満な白居易の交情は非常に細やかであったようで、元稹が浙江の長官で白居易が蘇州の太守であったときに飛脚で詩のやりとりをしているうちに、「有月多同賞、無杯不共持」の一連が、怪しくも両地で同じく作られた、という。元稹が亡くなる前年に白居易に贈った詩で「白頭の徒漸く稀少なり、明日恐らくは君この歓無からん」また「君を恋うて去らず君すべからく会すべし、知り得たる後迴相見る無からん」との句が図らずも作者の死を言い当てることとなった。白居易の詩に、元稹の貢いでくれた金は、二十万銭にも及ぼうか、といっているところがある。単に名利に目がくらんだ男ではなかったということか。