八名郡
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八名郡(やなのこおり)は三河国の郡。
愛知県東部の静岡県に接する地域で、三河地方の朝倉川以北の概ね豊川・宇連川の左岸(一部例外あり)にあった郡。
現在の豊橋市北部、新城市南部および豊川市の一部が該当する。郡域は、東三河4郡で最も狭く、いち早く市域となり郡域は消滅した。
7世紀後半の木簡が出土しないことから、大宝律令成立以後の8世紀に成立したと思われる。豊橋市域だと、石巻(山、神社)、多米(トンネル)など。
近世以降、八名郡は「やなぐん」と呼ばれた。明治維新直前安部氏が武蔵国岡部から陣屋を半原村に移して、半原藩が発足したが、すぐ版籍奉還を迎えた。
明治維新後の八名郡役所は富岡村(半原村他が合併;のちの八名村)に置かれた。
明治初期、広域から生徒を集めた八名高等小学校(富岡村)により、教育のメッカになったが、すぐ衰退し、第一次産業以外のさしたる産業のない地域になった。その中で郡の北部の大野町(現・新城市大野)は、秋葉街道の宿場町から発展した経済の中心として栄え、八名郡で唯一町制を敷いた。大野町に置かれた大野銀行は1945年東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に合併されるまで、八名郡はもとより東三河全域の経済を支配する銀行として君臨した。
戦前には、下川村(現・豊橋市牛川町)に愛知県立豊橋第二中学校[現・愛知県立豊橋東高等学校{現在は豊橋市向山町(旧渥美郡)に移転。}]が置かれた。これは、豊橋市と誘致を争った八名郡大野町に配慮して八名郡内に設置されたと考慮される。この旧制中学の豊橋二中の跡地は新制中学の豊橋市立青陵中学校になっている。
しかしながら、大正の郡制廃止後、八名郡役所の置かれた八名村は警察署以外の官公庁を失い、太平洋戦争直前の下川村、石巻村多米地区の豊橋市への合併や八名郡を管轄する八楽地方事務所の南設楽郡新城町への設置で、郡全体はいよいよ零細郡の色彩を強くし、南北設楽郡と併せて八楽(はちらく)地方と総称されることが多くなった。
戦後は、経済を支配していた大野銀行や八名郡全体を管轄した富岡警察署を合併で失い、町村合併促進法施行以後、豊橋市や豊川右岸の自治体との対等/吸収合併が相次ぎ、1956年9月30日の山吉田村の南設楽郡鳳来町へ編入を最後に、八名郡の名前は住居表示から消えることになった。
現在は、新城市南部の中学校名および小学校名に八名の名を止めるのみだが、小学校名は新城市市制施行後の命名である。 また、総称の八楽も地元タクシー会社やパン会社の社名に止まるのみである。