内藤忠政
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内藤 忠政(ないとう ただまさ)は、内藤忠重の父。
三河の内藤氏の一族で、藤原秀郷(または藤原道長)の子孫を称し、丹波・周防の内藤氏とは同族であるとされる。
内藤 忠政(ないとう ただまさ、1615年(元和元年)-1673年8月23日(寛文13年7月12日))は、志摩国鳥羽藩の第2代藩主。父は初代藩主・内藤忠重。母は内藤甚五左衛門の長女。正室は板倉重宗の娘。子に忠勝、波知(浅野長友室)、娘(安部信友室)、娘(戸田氏西室)、娘(岩城秀隆室)。官位は従五位下、飛騨守。忠重の父である忠政と区別するためにか、彼の名は史書によって忠種と言われることもある。
承応2年(1653年)、父の死去により家督を継ぐ。父の時代による最悪な税制を改めるため、江戸屋作左衛門を登用して新田開発を行ない、さらに年貢も定免制度に改めるなどして財政再建を目指した。さらに寛文9年(1669年)には領内に検地を実施して税制改革に成功を収めた。寛文13年(1673年)7月12日、59歳で死去し、後を子の内藤忠勝が継いだ。墓所は三重県鳥羽市の西念寺。
彼の娘である波知は赤穂藩主の浅野長友に嫁いでおり、その間に元禄赤穂事件で有名な浅野長矩が生まれている。
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