内閣改造
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内閣改造(ないかくかいぞう)とは、基本的には内閣総理大臣が、その任期中に国務大臣を入れ替えることをいう。通常は国会閉会中に行う。
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[編集] 概要
内閣改造について明文化された規定はない。憲法第68条第1項及び第2項に規定された首相の閣僚任免権を背景に行うことができると解釈されている。
首班指名後の組閣(または内閣改造)から1年程度経過すると、内閣改造を行うことが多い。政権与党の党役員人事と連動して行われる場合も多い。通常、首相が閣僚全員の辞表をとりまとめたうえで、留任も含め全ての閣僚を新たに任命する。また、新たに連立内閣を組む際などに、ごく一部の閣僚を入れ替える場合なども内閣改造と呼ぶことがある。与党の党役員人事と連動して行われる場合が多い。
いわゆる内閣総辞職とは違い、首相は辞職しないため、国会における首班指名選挙は行なわれず、首相の任期はそのまま継続する。したがって、宮中において天皇が臨席する、閣僚の認証式はおこなわれるが、首相の親任式は行われない。なお、例えば首班指名後、改造をおこなった場合、「第3次小泉改造内閣」というように表記し、首相の代数には数えない。
改造内閣において新たに閣僚となる者のみ「国務大臣に任命する」と発令され、発令替えとなる場合や留任の場合を含め、改造前から引き続き閣僚となる者には官記は発せられない。また、改造に伴って閣僚でなくなる者については自発的な辞任とみなされて「願に依り本官を免ずる」と発令される。
これは、首相に閣僚の罷免権(憲法第68条第2項)が与えられているにも関わらず、閣僚の更迭はあっても、罷免権を行使した例は極めてまれで(過去に4例のみ)自発的な辞任の形をとるという日本的慣習や、旧憲法下、形式上には首相に閣僚の任免権がなく、天皇に対して閣僚が個別責任を負っていた頃の名残と思われる。
改造の背景としては、一方では、ライバルを閣内に取り込んで封じ込めたり、後継者を重要ポストで処遇するなど、首相が人事権を行使することによって求心力を高め、政権基盤強化を狙う側面もあるが、他方、自由民主党の長期政権下にあっては、定期人事異動的な色彩が強く、ある程度当選回数を重ね「箔」を付けるため大臣になりたがっている国会議員、いわゆる「大臣病」議員を救済する手段として使われる場合が往々にしてある。
[編集] 歴史
戦前にも内閣改造は存在した。しかし、旧憲法下の首相は閣僚への罷免権がなく、「同輩中の首席」と称されるように、その権限は制限されており、内閣改造は極めて限定的であった。1941年、首相の近衛文麿が、松岡洋右外務大臣を更迭したいがために、わざわざ内閣総辞職をし、改めて天皇から「組閣の大命」を拝受して事実上の「内閣改造」をするという荒技を駆使しなければならなかった例もある。また、加藤高明内閣が1925年8月2日に護憲三派連立は崩れて憲政会単独内閣となったことは、今日では内閣改造とされている。
新憲法下にあっては、首相に衆議院の解散権や閣僚の任免権などが付与され、その権限は格段に強化された。吉田茂は「ワンマン宰相」と称され、その人事権を背景として内閣改造を権力掌握のために有効に使った最初の首相である。首相に指名されること5回、その在任中に「製造」された大臣はおよそ延べ80人にのぼった。
以後、政権が自由民主党に移ると、内閣改造は頻繁におこなわれるようになり、恒常化する。「人事の佐藤」と呼ばれた佐藤栄作首相も内閣改造を繰り返し、田中角栄、福田赳夫をはじめとする幹部たちを、閣僚と党役員を絡めながら巧みに配置して競わせ、7年8ヶ月の長期政権を維持した。その政権下、延べ約100人の大臣が誕生した。
小泉純一郎首相は、大臣は一代の内閣で責任を持って職務を果たすもので、軽々に交替させるべきではないとする「一内閣一閣僚」を標榜し、当初内閣改造を拒んだが、結局は定期的に内閣改造を行っていた。
[編集] 影響
内閣改造の恒常化は、ある程度当選回数を重ねると自動的に大臣になることができる、という風潮を生み出し、大臣の粗製乱造を招いた。
また、内閣改造は、マンネリ化を打破し人心一新を図るというメリットがある反面、短期間での大臣の交代は、政策の継続性を損なうため、政治家よりも官僚の力が強まり、官僚依存体質を生み出す原因となるとの指摘もある。