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田中榮(たなかかくえい、1918年5月4日 - 1993年12月16日)は日本の政治家。元衆議院議員(16期)、内閣総理大臣(第64代、第65代)。『今太閤』『コンピュータ付きブルドーザー』『闇将軍』などとあだ名された。
第64・65 代内閣総理大臣
田中角栄
田中角栄の銅像。
生年月日 |
1918年5月4日 |
出生地 |
新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市) |
出身校 |
中央工学校土木課卒業 |
学位・資格 |
一級建築士 |
前職 |
会社役員 |
世襲の有無 |
無 |
在任期間 |
1972年7月7日
- 1974年12月9日 |
選挙区 |
新潟3区 |
当選回数 |
16回 |
所属(推薦)党派 |
自由民主党 |
[編集] 経歴
[編集] 初当選まで
- 1918年 - 5月4日、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に、父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代には家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。また、吃音があり浪花節を練習して矯正した。なお「角栄」の戸籍上の表記は「角」は中心の縦棒が下まで突き抜ける異体字で、「栄」は旧字体の「榮」である。
- 1920年 - ジフテリアを患う。
- 1933年 - 3月、二田高等小学校卒業。
- 1934年 - 3月、上京。住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木課に通う。
- 1936年 - 3月、中央工学校土木課を卒業。建築技師として自活。
- 1937年 - 「共栄建築事務所」を設立する。
- 1939年 - 4月、応召、満州国で兵役に就く。
- 1940年 - 3月、陸軍騎兵上等兵となる。
- 1941年 - 2月、大病を患い内地へ帰還。10月、治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
- 1942年 - 3月、事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。11月、長男正法が誕生(1947年9月、5歳で死亡)
- 1943年 - 12月、田中土建工業を設立。理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長する。
- 1944年 - 1月、長女真紀子が誕生。
- 1945年 - 8月、日本の第二次世界大戦における敗戦に伴い、滞在していた朝鮮半島から帰る(最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。
[編集] 初当選から首相就任まで
[編集] 首相在任時
[編集] 首相退陣後
- 1976年 - アメリカ上院の外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日、ロッキード事件における5億円の収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される(総理の犯罪)。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月、保釈。12月、第34回総選挙でトップ当選。自民党は大敗し、三木武夫内閣は総辞職、福田赳夫内閣へ。
- 1978年 - 12月、大平正芳内閣発足。田中が強く支持。
- 1979年 - 10月、第35回総選挙でトップ当選。自民党は大敗し、その後の「40日抗争」で田中は大平を支持。党分裂の危機へ。
- 1980年 - 6月、第36回総選挙(参議院とのダブル選挙)でトップ当選。自民党も圧勝し、その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
- 1982年 - 11月、上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。同月、第1次中曽根康弘内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
- 1983年 - 10月、ロッキード事件の一審裁判で東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。12月、第37回総選挙で22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
- 1984年 - 10月、自民党総裁選で田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる
- 1985年 - 2月7日、創政会が正式に発足。2月27日、田中が脳梗塞で倒れ入院。言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。6月、田中事務所が閉鎖。9月、ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。10月、関越自動車道全通。
- 1986年 - 7月、第38回総選挙でトップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。
- 1987年 - 7月、竹下が経世会を旗揚げし、田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。同月、東京高等裁判所はロッキード事件で一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。10月、竹下が突然田中邸を訪問し、真紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。11月、竹下内閣が発足。
- 1989年 - 10月、直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
- 1990年 - 1月24日、衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。2月、第39回総選挙では元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
- 1992年 - 8月、中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、真紀子などが同行。12月、経世会が分裂。
- 1993年 - 7月、第40回総選挙で真紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護煕が非自民8党連立内閣の総理大臣になる。12月16日、75歳で死去。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。
- 1995年 - 2月、最高裁判所は榎本敏夫に対するロッキード事件上告審判決で、判決理由中で田中の5億円収受を認定する。
[編集] 没後
- 1998年4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。
- 2000年 - 朝日新聞の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、坂本竜馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位の得票を得る。
[編集] 功罪
[編集] 社会基盤整備
- 衆議院議員として、100本を超える議員立法を成立させた。その中には、自らが中心となって全面改正を実現させた道路法や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法が含まれ、戦後の日本の社会基盤整備に大きな影響を残した。
- 特に社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省等に対しては絶大な影響力を持った。また、自らが大臣として着任していた通産省や郵政省などにも大きな影響力を持ち、政治家による官僚コントロールの象徴的なケースとなった。
- 郵政相時代には、テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の原型を完成させる。その過程で官僚のみならずマスコミも掌握した。特にテレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことはその後の田中の飛躍の原動力になった。
- 自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備などの生活密着型事業まで、多様な公共事業の誘致に成功した。さらには自身のためのテレビ番組までも持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。上越新幹線の浦佐駅(南魚沼市、旧大和町)東口には、現在でも田中の巨大な銅像が建立されている(1985年竣工)。二階堂進が題字を担当し、当地が豪雪地帯であることもあってか、銅像の上には屋根まで設けられている。
- 後援会の「越山会」は建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票というバーター取引の場となり、地域社会を支配した。これは地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。また、越山会は田中自身の、おそらく日本史上最強クラスの集票マシンとしても機能した。
- また、これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。
[編集] その他の政策
- 高等小学校卒業という学歴で新潟から上京し、実業界と政界で成功を収めたという経歴から「今太閤」や「庶民宰相」ともてはやされ、就任時は各種機関の内閣支持率調査で空前の70%前後の支持を集めた。しかし、日本列島改造論が地価の暴騰やインフレを招くと、国民の支持は急速に失われた。
- 建築士法の制定を提案(可決成立)。
- ロッキード事件による逮捕で自民党を離党しても、党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、絶大な影響力を持った。特に、大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘の3代の総理大臣就任には田中の支持が不可欠であり、マスコミからは「闇将軍」の異名で呼ばれた。結果として、その強大な影響力の維持は、選挙における自民党の低迷と、新潟3区での田中自身の大量得票という二律背反的な影響を与えた。
- 選挙制度については、在任中の1974年に小選挙区比例代表並立制の導入を提唱したが、野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(俗にカクマンダーと称されている)。
- 自らの首相退任後は、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、キングメーカーとして君臨するスタイルを貫こうとした。これは内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにした。これに対しては配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。
- 自分の選挙区でも後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが真紀子を支持した。
[編集] 外交
- 田中の政治的な師である佐藤栄作は台湾の中華民国(国民政府)を重視しており、田中自身が首相就任前から親中派として知られていたわけではないが、1972年1月にニクソン・アメリカ大統領が中国を訪問したこと、三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交回復を条件としたことなどにより、日中国交回復への決断を早急に行った。これが現在に至るまで、田中による最大の政治的業績と見なされているが、この際台湾と断交したことに対する批判は今も根強い。しかし角福総裁選において、三木武夫や当時ハト派若手グループを率いていた河野洋平ら親中派議員がキャスティングボートを握っており彼らの支持を得ようとせんとするのであればやむをえない一面もあったであろう。
- 一連の日中外交において外相を務めたのが、田中の盟友・大平正芳であり、田中の信頼のもと、田中から外交の一切を任され、実務を取り仕切った。引続いての日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが二人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。両者の信頼関係を物語るエピソードである。
- 当然、自民党政権の首相として対米外交も重視しており、首相就任直前に返還された沖縄問題、終盤に入ったベトナム戦争への対応、ニクソン・ショック後に変動相場制へ移行する金融政策などでニクソン政権と協調した。ただし、そのアメリカからもたらされたロッキード事件が、田中の政治活動を大きく制限する事になった。
- 日ソ国交回復時の鳩山一郎以来となるソビエト訪問では、ブレジネフ共産党書記長との会談で、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という事を確認したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。
- 在任中に第一次オイルショックが発生し、中東政策をイスラエル支持からアラブ側支持に転換すると共に、中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた。なお、田中の支持者の間では、これがアメリカの石油資本の不興を買い、ロッキード事件による事実上の失脚につながったとする陰謀説を唱える者もいる。
- 金大中事件では当時の朴正煕政権を支持するとの立場から主権侵害との批判を介さず韓国側の一方的な政治決着を受け入れ批判された。この時毅然と対応していれば北朝鮮拉致事件は起きなかったという評もある。
[編集] 人物
- 大平正芳とは長らく盟友関係にあり、田中の総理就任の際には大平の協力が、大平の総理就任の際には田中の支援があった。その一端が上述の日中外交における二人三脚である。その一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は、第2次大平内閣時に総理大臣指名選挙での党分裂や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした。
- 正妻・はなとの間には1男1女を設けたが、成人したのは長女の真紀子のみだった。はなは病弱のため、田中が総理大臣の時には真紀子がファーストレディの役目を代行し、田中の引退後に同じ新潟3区から衆議院議員に当選した。なお、角栄と真紀子は「一卵性親子」とも呼ばれた。その真紀子の結婚に当たっては直紀を婿養子として迎え、その後直紀は福島3区から衆議院に当選している。
- この他、東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる。こちらは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。その中の一人が音楽プロデューサーやバー経営者の田中京で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。長女の真紀子はこの辻や腹違いの兄弟たちをよく思っておらず、葬儀の際の焼香を拒否している。神楽坂という場所も嫌い、角栄亡き今も「神楽坂なんて大嫌いだ。近付きたくもない。」と、周囲に語っている。
- 東京や新潟での人脈の広さは幅広く、東京の文京区目白台の自邸(通称:目白御殿または目白)には政財界の要人が常時訪れていた(通称:目白詣で)。 この当時、政治用語で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
- 選挙区の新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は鉄の団結と評され、ロッキード事件後は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。秘書の佐藤昭子は「金庫番」として田中の政治活動を支え、新聞記者から転身した早坂茂三は政策ブレーンとして政界に大きな影響力を持った。2人とも角栄が倒れた後は真紀子から遠ざけられた。
- 田中派は自民党内最大の派閥であり、最盛期では約130人の国会議員が所属していた。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔などであった。なお、小沢は早世した長男正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
- 典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
- 芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断ったタレントに対しては、他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
- 議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かったため、関係も深かった。民社党との間で、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。その甲斐あって後に、公民両党が定数5の新潟3区で長年に渡り候補を擁立せず、事実上の角栄支援=選挙協力をした。
- 派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それがもっとも機能的に働いたのが大平内閣前夜の自民党総裁予備選であった。当初現役総理の福田は予備選に負けたら総裁選を降りると明言するほど票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を努めた榎本敏夫などがいる。
- 新潟では戦前の農民運動の影響で日本社会党の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあった。
- 1969年11月、政治評論家藤原弘達が創価学会と公明党の政教一致を批判する『創価学会を斬る』を出版したが、創価学会と公明党はこの著作に対し出版以前から出版社・書店などに圧力をかけた(「言論・出版妨害事件」)。その際田中は藤原に対し「公明党は議席さえ与えておけばご機嫌な連中だ。あまり絡むな」と忠告したという。藤原はこうした田中の姿勢を問題視し、「創価学会・公明党の本質を直視していない」と批判している。田中は社会党の勢力を相対的に弱めるため創価学会と公明党には甘い態度をとり続けたと言われ、田中派所属議員の中にも公明党議員と親密な関係を持つ者が少なくなかった。
- 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業の小佐野賢治は、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については今でも不透明な部分が多い。
- 中国からは「国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、田中が刑事被告人として訴追された後も、多くの中国政府の要人が訪日時に田中邸を訪問した。1977年の鄧小平来日の際には田中邸を訪問している。田中家と中国政府の友好関係は角栄の死後も真紀子が継承している。
- 初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。日中国交正常化、金大中事件、オイルショックと言った政治課題を独自の手腕で切り抜けた。人気がある反面、癖のある人格や政治方法と金脈問題、上越新幹線・関越自動車道に代表される支持基盤への利益誘導型政治を推進したとして批判の対象になることも多い。
- 1974年末に金脈問題が追及されて総理を辞職するが政界への影響力は保ち続け、1976年にロッキード事件が発覚、受託収賄罪で起訴されて自由民主党を離党し、一審で有罪の判決を受けても、まだ影響力を持っていた。時の首相も彼の影響を受けずにはいられなかったことから闇将軍とも呼ばれた。この影響力は彼が1985年に病床に就くと急速に失われた。他にも脱税事件を起こしている。受託収賄は二審も有罪、上告したが死去したために公訴棄却となった。
- 貧しい生い立ちから身を起こし立身出世したことが、豊臣秀吉に共通するという点から、俗に「今太閤」と呼ばれることもあったが、本人は織田信長、秀吉、徳川家康の戦国三傑において信長を理想としており、自分が豊臣秀吉に擬えられることは好んでいなかった(太閤、豊臣秀吉参照)。
- 一級建築士資格取得者である。馬主として子の眞紀子から名を取ったマキノホープという馬を所有していた。
- 中曽根康弘を「遠目の富士山」、橋本龍太郎を「風切り小僧」と呼ぶなど独特かつ的確な人物眼で知られた。自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めるような事を避け、しばしば苦境に立った政敵に援助の手を差し伸べるなどした。これは人心掌握のための戦略とも、苦労の多い前半生を送った田中個人の性格のゆえとも言われる。
- 小室直樹の著作を愛読し、これを高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
- 自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとしたが、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。浦佐駅の銅像建設時と正反対の対応であり、田中の人となりが良く現れたエピソードとして知られる。
- 馬喰の家出身のせいか、味付けの濃い食べ物を好んだ。そのため首相在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
- 真紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
[編集] ニックネーム、渾名
- 「今太閤」
- 「コンピューター付きブルドーザー」
- 「角さん」
- 「自民党周辺居住者」
- 「目白の闇将軍」
- 「キングメーカー」
[編集] 一族
[編集] 家族・親族
[編集] 系譜
角右衛門━━捨吉━━角次━━角栄━┳正法
┗真紀子
[編集] 田中角栄を題材にした楽曲
[編集] 関連人物
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 先代:
- 佐藤栄作
|
- 自民党総裁
- 第6代: 1972 ‐ 1974
|
- 次代:
- 三木武夫
|