冷泉隆豊
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冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ、永正10年(1513年) - 天文20年(1551年))は戦国大名大内氏の家臣。冷泉興豊の子。冷泉元豊、冷泉元満の父。
家系は大内氏の庶流にあたり、母方を公卿の冷泉家とする祖先が、母姓を冒して冷泉姓を称したことにはじまる。
大内義興に早くから仕え、その没後は子の大内義隆に仕えた。1541年には安芸の銀山城主となる。主に中国・瀬戸内方面で活躍した。 その後は主君・義隆や相良武任らの文治派と陶晴賢らの武断派の衝突が深刻化すると、両者の暴発を回避しようと、その仲介に奔走する。晴賢が謀反を起こす直前、義隆に晴賢を誅殺するように進言したが、容れられなかったと言われている。
1551年、晴賢が謀反を起こすと義隆とともに逃走し、義隆が自害を覚悟するとその介錯を務め、自身も陶軍の中に突撃して果敢に討ち死にしたと言う。その忠臣ぶりは、高く評価されたといわれている。
隆豊は武勇に秀でていただけではなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われている。
子の元豊は毛利氏に仕え、門司城の城代をつとめたが、1562年、大友氏の攻撃により討死した。その跡は元豊の弟の元満が継ぎ、水軍の将として活躍した。