動員
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動員(どういん、mobilization)とは通常何らかの目的の為に物資・人員を集中する事を言う。元々は軍事用語からの転用であり、この項目では軍事用語の動員を解説する。
動員は19世紀後半から第一次世界大戦後までの間、全ての主権国家が恫喝や戦争遂行のために準備していた軍事的手段。動員によって軍隊は平時編制から軍時編制に移行し、この時期の軍隊においては動員の主任務は兵を召集することにあった。
動員の下地である近代徴兵制度はフランス革命後のフランス共和国において初めて実施され、1850年代のプロシアが国民皆兵を実施し普仏戦争に大勝したことにより、その後数十年の陸軍の基本が徴兵と動員に決定した。
近代において動員と召集はほぼ同義であるが、現代においては戦時編制に移行する際に兵の招集を行わないために、動員の意味は変化している。
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[編集] 動員の前提条件
戦時に国民を動員をするためには、そもそも国家が平時から兵士を訓練する必要がある。近代国家が徴兵令によって成年に達した国民を部分的にしろ徴兵し、そこで数年訓練を行う。彼らが戦時に動員される。当然ながら、動員をかける際には訓練の記憶が新しく、体力的にも優れている若い方から動員される。
徴兵訓練人口が多ければ多いほどその国の潜在的軍事力が高いということになる。この為ヨーロッパ大陸諸国はこぞって徴兵人口を増やし、第一次世界大戦開始当時、独仏徴兵人口が成年男子の6割に達した。これには、陸続きの国家は敵の侵入に対し、軍事的にも政治的にも可及的速やかに撃退力を有した陸軍を編成して撃退しなくてはならないからである。部分動員であっても徴兵人口が多ければ1師団を充足する為の国土面積が少なくてすむので、やはり徴兵人口が多ければ多いほど有利である。
[編集] 第一次世界大戦までの徴兵と動員
普通、近世の独仏等の徴兵国家の陸軍は平時は将校過多の状態であり、動員によって将校と兵士のバランスが取れる。国家が動員をかけるということは、その国が近隣諸国に戦争を仕掛ける予兆であり、大国と小国の場合は恫喝、大国同士の場合は挑発の効果となる。動員が長引けばそれだけ仮想敵国に時間を与える事になるので、動員は国家の鉄道を最大限に利用する。
なぜ1850年代から動員という概念が各国に浸透したかについては、鉄道の発達によるものが大きい。これより以前は陸上輸送のスピードが遅く、動員令が予備役に届くまでの時間も、予備役が軍隊の指揮下に入り師団が充足されるまでにも、膨大な時間がかかってしまう為、このような動員は現実的ではなかった。
その間に常備軍による侵攻、あるいは海上輸送による上陸作戦を防ぐ事が出来ず、敵に橋頭堡を与えてしまう。鉄道の充実により武装した兵士の国内移動が迅速に行えるようになり、敵の侵攻に動員した師団をぶつける事が出来るようになったのである。このように、鉄道の進化と動員の発展は切っても切れない関係にある。第一次世界大戦前のドイツ帝国において、鉄道は平時も陸軍の管轄であった事がそれを端的に示している。
プロイセンは普墺戦争・普仏戦争においては、各国の鉄道の未発達を逆手に取り、自国の鉄道を仮想敵国の国境まで事前に敷設する事で、軍事的優位を手にした。だが、第一次世界大戦においてはその優位は最早薄れていたのである。
[編集] 第一次世界大戦時の徴兵と動員
英米は第一次世界大戦当時、徴兵制そのものを保有していなかった。アメリカはモンロー主義によって紛争にできる限り首を突っ込まない政策をとっていたし、イギリスはその巨大な海軍によって本土の防備が可能だったからである。このように、島国は敵の陸軍が開戦と同時に本土にやってくる事は無いので、戦争が始まってから志願を募り、訓練をする時間がある。
当然ながら、動員によって充足できるのは歩兵だけであり、専門的な知識を要する砲、戦車や海空軍を充足する事は不可能である。これらは平時から猛訓練によって各兵器を手足のように扱える専門兵が扱う。すなわち、平時から巨大な海軍を維持し本国を守る大英帝国は徴兵によって戦時の為の陸軍を整える必要が無かったのである。
しかし、イギリスは参戦直後作り上げたキッチナー陸軍という巨大志願兵部隊の損耗と共に、アメリカは参戦後の1917年から選抜徴兵制を導入せざるを得なくなった。
[編集] 総動員
大国同士の戦争になると、兵士としての使用に耐えうる限界年齢までを一気に動員することがある。この限界年齢は40才から45才と思われる。これを総動員という。第一次世界大戦は、ロシア帝国が動員をかけたことで、ドイツ帝国がシュリーフェン・プランに基づいて総動員をかけた事で開戦した。
総動員は国家にとって失敗の許されない物であるが、近隣諸国に対する影響から当然訓練で総動員をかける事は不可能だった。第一次世界大戦の例で判るとおり、サラエボ事件とシュリーフェン・プランがあったとはいえ、ロシアの部分動員によって戦争は始まってしまうのである。
他には、第二次世界大戦のポーランド、フランス、ソ連等が開戦後に総動員をかけた。日独はかなり遅い時期まで総動員をかけなかった。第二次世界大戦のドイツが総動員をかけなかったのは経済への打撃を恐れた他、電撃戦を遂行するための機甲軍は動員によっては充足できなかったからだろう。
[編集] 動員の終焉
第二次世界大戦において、ナチス・ドイツは電撃戦によってポーランドは動員を完了する前に降伏に追い込まれ、太平洋戦争において日本の航空攻撃が動員によらない職業軍人の精鋭軍が敵国を攻撃・侵攻できる事を示した。これら事例や、第二次世界大戦後の軍事技術の発展によって、徴兵によって数年訓練を受けただけの素人が軍隊の中核を担うのが困難であるという見方が主流になり、現在ほとんどの国家は職業軍人だけで軍隊を形成している。総じて、大規模な動員や総動員が行われたのは19世紀後半から20世紀前半までとなる。
スイスや韓国、イスラエルのように未だに国民皆兵、徴兵制を実践している国もあるが、これはその国に特殊な事情あるからで、現代においては動員兵が軍隊の正面戦力を担うことは無い。このような国の徴兵は、むしろゲリラ戦術や隣国との軍事的緊張において銃後の備えを国民の意識に刷り込む事を目的としている。徴兵制を実施している・していた国については徴兵制度を参照。
[編集] 動員の影響
直接的には、動員は平時には普通に生活している人々を徴兵するため、国家経済へかける負担が非常に大きい。
又、第一次世界大戦後のフランスで顕著であったが、若年層が大量に死傷する為に、人口分布に大幅な崩れが起きてしまう。ナポレオン戦争後や両大戦間期において、フランスの出生率は大きく落ち込み、これが当時のフランスの軍事的弱体化にも繋がっている。
一方、この第一次世界大戦における長期間の動員によって男性が担っていた経済の埋め合わせの為に各国で女性の社会進出が進んだ。大戦後各国は相次いで女性参政権を認めている。
[編集] 日本の動員事情
徴兵制の完成度は成年男子の総数に対する訓練済み予備役兵士の比率で表される。訓練率と呼ばれるもので、第1次大戦前の独仏両国では6割以上に達していた。これに対し、日本は1935年まで2割を越えることがなかった。2割はイギリスなど志願制をとっている国と大差がない。[1]
日本陸軍は1925年に17個に軍縮した常備師団を1937年に日中戦争が始まった後、太平洋戦争開始までにやっと49個に増加させたが、第一次世界大戦において独仏両国は半月足らずで80個師団を動員し戦線に投入した。日本は1914年時点で既に独仏両国の人口を上回っており、人的資源面から見れば師団増強は容易であるにも関わらず、日本の師団増強は遅々としていた。
動員が軍事的意味を持つのは、平時の徴兵人口を多く保っている場合である。これは、数年の徴兵人数増強で達成できるわけではない。日本の訓練人口は上記のようにドイツなどに比べると圧倒的に低かったが、むしろ、日中戦争という戦時下においても、師団増強の為の訓練よりも師団の装備や維持の為の財源を捻り出す事を念頭に置かなくてはならなかった事がこの原因となる。
日中戦争中に施行された国家総動員法は、兵員動員の為の法案としてよりも、経済動員としての側面が強く、その条文の中には勅令によって臣民を徴用し総動員業務に従事せしめる、総動員物資の確保の為の差し押さえ・輸出入関税変更・法人統廃合及び設立・価格賃金の変更を勅令によって命令できるとあるが、兵役法は徴用に優先するとされており、軍事的動員には全く関係のない法案である。むしろ、この法案の「総動員」は動員の軍事用語からの転用された意味に立脚しているものと見て取れる。