徴兵令
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徴兵令(ちょうへいれい)は1873年(明治6)に制定され、国民の兵役義務を定めた日本の法令。1927年、兵役法に移行した。
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[編集] 前史
明治新政府の軍は、長州(長)・薩摩(薩)・土佐(土)など諸藩の軍の集合で、大村益次郎、西郷隆盛、板垣退助らがそれぞれ指揮しており、政府独自の軍を持たなかった。大村や西郷従道、山県有朋らは早くから四民平等の理念もあり「国民皆兵」の必要性を唱えていたが、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「壮兵」といって、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村が暗殺された事もあって構想は一旦は挫折する事となった。1871年2月、三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が親兵に編成され、この兵力を背景に同年7月廃藩置県が断行された。
中央集権体制の近代国家にとって国民軍の創出が必要と認識され、山県有朋の構想のもと、1872年11月、徴兵告諭が出され、翌年1月の徴兵令に続く。
[編集] 徴兵令
徴兵令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍とした。
国民皆兵を理念とはしたが、病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」や「嗣子並に承祖の孫」(承継者)、金銭(270円)を支払った者は徴兵免除とされた。このため、徴兵逃れに養子になる者が続出した。この結果、二十歳以上の男子の3%~4%くらいしか徴兵できなかった(もともと政府の財政難により、成人男子全員を徴兵することは到底無理ではあった)。
さらに各地で徴兵令反対の一揆が起こった。徴兵告諭に「血税」という言葉があったためとされ、「血税一揆」と呼ばれた。この一揆、特に岡山県で激しかった。「血税」とは、フランス語の「impôt du sang」の直訳であり、「impôt」が「税」、「sang」が「血」の意である。
- 「徴兵告諭」の一節:「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報するの謂なり」
当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及、日清戦争・日露戦争の勝利などを経て、次第に兵役を名誉なことだと考える風潮が高まっていった。創設当初にあった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、1889年に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。
[編集] 影響
不況下においては兵役もまた生活の糧を得る手段として考えられた。また、兵役における近代的なシステムや生活が地方に伝播するのに貢献したと言う面も否めない。農民にとっては(暴力を振るわれても)農作業よりも楽であり、白米が食べられることから、明治時代には「軍隊に行くとなまけ者になる」という評判があったという。