吉成又右衛門
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吉成又右衛門(よしなりまたえもん、寛政9年(1797年) - 嘉永3年(1850年))は、幕末の志士。本姓は坂上氏。家系は坂上氏の流れを汲む田村氏の庶流。但し、本家・田村氏には平氏説あり。諱は信貞。仮名 (通称)は又右衛門。号は慎亭。父は水戸藩士・吉成市大夫信友、母は板橋善衛門元信の女。妻は青山延于の女次いで軽部六郎左衛門政行の女。子に吉成恒次郎がいる。位階は贈正五位。
[編集] 家系
白河氏の家臣に陸奥国三春城主 田村氏庶流の吉成氏あり。佐竹氏の家臣を経て、水戸藩に仕官する。
- 吉成氏系譜
- 田村義顕-田村行顕-田村補守-吉成政房-吉成清信
[編集] 生涯
藤田幽谷の門に学び、文政4年(1821年)家督を相続した。小普請組みを経て、馬廻組、進者番に進む。徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった。天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む。弘化元年(1844年)斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞となる。