名古屋山三郎
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名古屋 山三郎(なごや さんさぶろう、元亀3年(1572年) - 慶長8年(1603年))は、戦国時代の武将。尾張国の生まれ。出雲阿国の愛人と言われ、阿国とともに歌舞伎の祖とされている。(生年については異説あり)
幼名は九右衛門。号は宗円。名越氏の子孫と言われている。はじめ蒲生氏郷に仕えたが、1595年に氏郷が死去すると蒲生氏から退去して出家した。その後しばらくして還俗し、森忠政の家臣として仕えた。忠政は山三郎を気に入り、5000石の所領を与えたと言われている。
1603年、忠政は関ヶ原の戦いにおける恩賞として美作国津山藩に移封された後、津山城の築城工事を行なっていた。その築城工事の責任者の一人として山三郎もいたのであるが、工事現場において同僚の井戸宇右衛門と喧嘩口論の末に刃傷に及び、そのときの傷がもとで双方ともに死去してしまった。享年32。
戦国屈指の槍の名人であり、「槍師、槍師は多けれど、名古屋山三は一の槍」とまで歌が作られるほど、その槍術は賞賛された。また、伊達男、美男子として知られ、阿国歌舞伎では阿国の愛人と言われているが、定かではない。