ノート:四神相応
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[編集] 大宰府・広島城の表からの削除について
(大宰府について) 本文でも触れたように、「四神相応」の地を「山川道澤」にあてはめる解釈は平安時代後期になって登場するものであり、奈良時代には別の解釈が存在していました。7世紀にその萌芽を持つ大宰府を「山川道澤」にあてはめることは歴史学的に見てナンセンスな行為です。 (広島城について) 広島城の北には「阿武山」などありません(萩城と混同?)し、広島城より何百年も前から存在する厳島神社を裏鬼門の押さえとすることもおかしな話ですので、削除しました。202.221.5.234 2006年2月16日 (木) 13:19 (UTC)
- 大宰府の「四神相応」については、同市のオフィシャルホームページにも紹介されている通説です。
- 現在の「四神相応」解釈が平安時代後期のこととすると、平安京も削除の対象となります。
- 解釈が平安時代後期のこととする根拠も希薄でありますので、大宰府についての削除は不適切です。
>大宰府の「四神相応」については、同市のオフィシャルホームページにも紹介されている通説です。 太宰府市のHPにはそれらしい記事はありませんでした。できましたらURLをお示し下さい。
>現在の「四神相応」解釈が平安時代後期のこととすると、平安京も削除の対象となります。 平安京の対応関係が最も知られているにもかかわらず,後付であることを説明するため,あえて残しておいたつもりだったのですが・・・。
>解釈が平安時代後期のこととする根拠も希薄でありますので、・・・ この件に関する論文を読むなり,調べものをしたことはおありですか?平安京が「四神相応」であるという説自体は平安時代から幾度と無く説かれていますが,その内容,つまり,「平安京周囲のどのような地形が四神にあたるのか」という具体的な記述は一切ありません。一方,平安時代後期の『作庭記』や鎌倉時代の『ホキ(実際は漢字ですが表記できません)内伝』では,住宅用の風水の観点から「四神」がどのような地形(山川道澤)であるのかを説きますが,平安京についての記述はありません。平安京周囲の地形に具体的にあてはめはじめるのは江戸時代になってからで,本文でも触れていたとおり,一番有名な「船岡山,鴨川,山陰道,巨椋池」が出そろうのは明治になってからのことです。諸説があるのは,それだけ自由な解釈がなされるということの裏返しなわけです。 歴史学の方法論で導き出される答えはここまでです。例え現在通説のように流布している説だとしても,それが当時とイコールであるとは限りません。歴史学の根幹は時間の経過による変化を明らかにすることにあります。それを無視した主張は,どんなに面白いものであっても歴史事象をかたる上でまったく意味がないばかりか,害悪そのものであるといえます。202.221.5.234 2006年2月22日 (水) 12:43 (UTC)
- 本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。
- 都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。
- この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。
- 「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。
- 通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。
- 解釈を江戸・明治にまで持ってくると、全ての例が当てはまらなくなりこの記事「四神相応」全てを否定することになります。
- 大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?
- 最近まで太宰府市のHP
- http://www.city.dazaifu.fukuoka.jp/bunka_t/rekitop.jsp
- に説明がありましたが削除されているようですね
>本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。
→そのソースをお示し下さい。
>都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。
→大宰府に条坊が備わるのは10世紀になってからです。したがって「四神相応」として建設されたものではありません。仮に都市の形態を「四神相応」とみる説にたっても「後付」となります。
>この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。
→「大宰府は四神相応の土地を選んで建設された」という誤った理解を誘うような記述が許されると?項目によってはその理解を助ける説明として歴史的経緯を述べることは重要なことだと思いますが?
>「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。
→一般には伝統的なものと理解されている項目の例として現代の「後付」がふさわしいものとお考えですか?
>通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。
→たとえ「通説」であっても根拠が薄弱なのですから「事典」としての良識を示すべきでしょう。もっとも個人的には「通説」と言われるのにも非常に違和感があります。検索エンジンで「大宰府 四神相応」で引っかかるのは出所が同じと思われるものばかりなのですが。
>解釈を江戸・明治にまで持ってくると、全ての例が当てはまらなくなりこの記事「四神相応」全てを否定することになります。
→よく記事の内容を読んでください。全否定などしていません。現在一般に知られている「四神相応」の内容が伝統的なものではないということも記述していますが,平城京の例をあげているように「四神相応」という選地思想の存在は前提として認めています。
>大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?
→平安京の場合,平安時代から「四神相応」であるとの認識があり,それに対してより具体的な「後付」がされていくという歴史的経緯をたどっています。その過程はそれはそれで歴史的事象なわけです。また「四神相応」であろうとなかろうと「平安京」という古代都市の評価が急激に上昇することも下降することもありません。さらに「山川道澤に合致するから平安京は王都なのだ」などという,後代の基準で過去の事象を位置づけようとする本末転倒の主張は皆無です。 ところが,大宰府の場合,平安京のような歴史的経緯が無く現代になって突然唱えられはじめたこと,大宰府に対する近年の歴史学・考古学の研究成果を無視した内容であること,「大宰府は四神相応の地だから王都なのだ」といった本末転倒な思考によって大宰府の歴史的評価を捏造しようとする言説をする人たちがみられること,といったあたりが「害悪」とした理由です。
で,あなたは大宰府(条坊域含む)が「四神相応」に基づいて建設されたという根拠を示すことができるのですか?202.221.5.234 2006年3月6日 (月) 10:34 (UTC)
- >>本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。
- >→そのソースをお示し下さい。
- 風水のHPです。URLは忘れました。自分で検索して下さい。
- >>都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。
- >→大宰府に条坊が備わるのは10世紀になってからです。したがって「四神相応」として建設されたものではありません。仮に都市の形態を「四神相応」とみる説にたっても「後付」となります。
- 10世紀というのは確定したことではありません。
- >>この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。
- >→「大宰府は四神相応の土地を選んで建設された」という誤った理解を誘うような記述が許されると?項目によってはその理解を助ける説明として歴史的経緯を述べることは重要なことだと思いますが?
- 「誤った理解」というのは、思い込みでは?
- >>「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。
- >→一般には伝統的なものと理解されている項目の例として現代の「後付」がふさわしいものとお考えですか?
- 「後付」は、太宰府でなく平安京ですね!
- >>通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。
- >→たとえ「通説」であっても根拠が薄弱なのですから「事典」としての良識を示すべきでしょう。もっとも個人的には「通説」と言われるのにも非常に違和感があります。検索エンジンで「大宰府 四神相応」で引っかかるのは出所が同じと思われるものばかりなのですが。
- 以前は太宰府市のHPにもありました。
- >>大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?
- >→「四神相応」であろうとなかろうと「平安京」という古代都市の評価が急激に上昇することも下降することもありません。「大宰府は四神相応の地だから王都なのだ」といった本末転倒な思考によって大宰府の歴史的評価を捏造しようとする言説をする人たちがみられること,といったあたりが「害悪」とした理由です。
- 要するに自分の支持する学説に都合の悪い情報は削除したいということですね。
- >で,あなたは大宰府(条坊域含む)が「四神相応」に基づいて建設されたという根拠を示すことができるのですか?
- 竈門山旧記
- >これについては平城京周囲の地形から、中国・朝鮮と同様のものであったとの説が有力である。
- そういった地形は見られないので削除しました。
- >政庁の南正面に丘陵があり南方に向けてひろがる地形ではない
- 多少の起伏はありますが、問題となるほどの丘陵は無いので削除しました。
>風水のHPです。URLは忘れました。自分で検索して下さい。
見つかりませんが。
>10世紀というのは確定したことではありません。
発掘調査により、8世紀後半に部分的に施行され、10世紀段階になって広範囲なものになるという事実が判明しています。
>「誤った理解」というのは、思い込みでは?
歴史学的な手法では大宰府の地が「四神相応」の思想に基づいて建設されたものといえるだけの根拠はありません。それを覆すような具体的な史料・資料を根拠として提示もしない主張はあやまったものであると言わざるを得ません。
>「後付」は、太宰府でなく平安京ですね!
平安京が後付であることは認めるのですね?であるならば,書き込みの当初,平安京と大宰府とが同列に語られていたので大宰府も後付となります。
>以前は太宰府市のHPにもありました。
そのHPに記載された解釈の出所も同じ疑いが高いということです。
>要するに自分の支持する学説に都合の悪い情報は削除したいということですね。
違います。歴史学的にまっとうな手法が用いられ、充分に納得できるような根拠の提示があれば、いつでも認めますよ。
>竈門山旧記
これのどこに「大宰府が四神相応の地を選んで建設された」と記述してあるのでしょうか?いっておきますが「鬼門」というのは「四神相応」とは本来別の思想です。勝手に根拠をすり替えないでください。
なお、『竈門山旧記』には延宝8年(1680)の内容が含まれていますから、成立は遡っても17世紀の後半です。ここで問題となっている大宰府の成立時期からは少なくとも1000年近くの時間差があり、『竈門山旧記』の内容が古代の事柄を正確に伝えていると無批判に考えることはできません。「時間差」を考慮することは歴史を語る上での基本中の基本です。また、この書物が神社の歴史を語る=縁起である以上、自らを権威付けするための誇張があると考えるべきものです。江戸時代であれば、「鬼門」の思想は広く知られていますから、そうした意味でも、『竈門山旧記』の内容を100%信用することはできません。「史料・資料の性格」を考慮することも歴史を語る上での基本中の基本です。
>そういった地形は見られないので削除しました。
そうですか?京の背後には平城山丘陵が広がっており、東には春日山から続く山々が、西には奈良盆地と富雄の谷を隔てる丘陵が北から南へと伸びています。宮の東西には佐保川と秋篠川が流れており、それらは南方で他の河川と合流し、湿地帯を形成しています。こうした地形は、大陸の「四神相応」の地形によく合致しているといえますし、「四神相応」に似た概念である「局」の地形にもよく合致しています。
>多少の起伏はありますが、問題となるほどの丘陵は無いので削除しました。
「山川道澤」の概念が平安後期を遡ることを立証できない以上、どう足掻いても妄説ですよ。
これ以上、歴史の捏造はやめていただきたい。202.221.5.234