垣野多鶴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
垣野 多鶴(かきの たづる;1951年6月15日~ )は、野球の選手(内野手、右投げ右打ち)、社会人野球・三菱ふそう川崎硬式野球部監督。第15回アジア競技大会野球日本代表監督。
長崎県出身。長崎県立佐世保工業高等学校から東海大を経て1974年に三菱自動車川崎に入社。強打の内野手として活躍し、1980年からは選手兼任監督としてチームを牽引。現役を引退し監督に専任した1985年には都市対抗野球でチームをベスト4に押し上げた。
1989年シーズン限りで勇退すると、1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表のコーチを務めた。
1999年シーズンオフにチーム事情から再び三菱自動車川崎のユニフォームに袖を通して現場復帰し、いきなり2000年の都市対抗野球で初優勝を遂げる。
また、2003年、2005年と都市対抗野球を制し、6年間で3回の都市対抗野球制覇という偉業を成し遂げ、2005年の第76回大会では小野賞を獲得。また同年の社会人ベストナインでは、過去1人(川島勝司・ヤマハ監督、現トヨタ自動車副部長兼総監督)しかなしえていない3度の都市対抗野球制覇を称え、特別賞が授与された。
幻のアテネオリンピック野球日本代表監督として知られる。
[編集] ハイライト
[編集] ID野球を撃破
2003年の第74回都市対抗野球大会の目玉は、前年秋に監督兼GMに野村克也を迎え、野間口貴彦やオレステス・キンデランらを擁するシダックスだった。シダックスは順調に勝ち上がり、決勝で垣野率いる三菱ふそう川崎と対戦した(2003年9月2日)。序盤は3-0でシダックスがリードしたが、垣野は野間口に多くの球数を投げさせる待球作戦をチームに命じ、チャンスを待った。7回にチャンスが訪れ、主砲・西郷泰之のタイムリーなどで一気に同点に追いつくと、代打を送り、初球スクイズに成功、これが勝ち越し点となった。
野村は事あるごとに、「あの場面はスクイズの確率が一番高かった。バッテリーに確認を命じなかったワシのミスや」「あの負けはプロも含めて一番悔しい負けや」「三菱ふそうには何が何でも勝ちたい」とコメントし、垣野の采配がID野球を凌駕した試合であった。
[編集] 「Revival of FUSO」
2004年、都市対抗野球優勝チームの証である黒獅子エンブレムを袖に試合に臨んだ三菱ふそう川崎は、春先から好調で、前年初戦でクラブチームに足元をすくわれているJABA京都大会においては決勝戦で雪辱に燃えるシダックスを返り討ちにして同大会での初優勝を果たした。しかしこの大会の最中、本社をめぐる不祥事が発覚、三菱ふそう川崎は前年度の都市対抗野球優勝チームであるにもかかわらず活動を自粛することとなり、選手たちはリコールの対応やトラック・バスの点検作業のため全国各地の工場に散り散りになった。
2005年シーズン、活動自粛が解け、活動が再開された。幸いにも22名の選手のうち、実家の事情で退部した1人を除き全員がグラウンドに戻ってきた(反対に、同様の不祥事で活動を自粛した三菱自動車岡崎では、監督を含む14人が、他チームでのプレーを前提に退部している)。垣野は、野球部にできることは、ただ勝つことではなく、圧倒的な強さで勝ち進み、ふそうの復活を会社にアピールし、ひいては全国にアピールすることと考え、チームのスローガンを「Revival of FUSO」(ふそうの復活)とした。
同年の都市対抗野球、補強選手もうまくかみ合い、決勝戦では神奈川県2次予選第1代表決定戦と同じ組み合わせとなった日産自動車との対戦となったが、これも6-3で退け、リバイバルを完結させた。試合後の場内インタビューで垣野は、「今度は(社員の)皆さんと一緒にリバイバルを果たしたい」とコメントし、企業チームのあり方を示唆することとなった。