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オレステス・キンデラン(Orestes Kindelan, 1964年1月7日 - )はキューバの野球選手(内野手)である。野球キューバ代表のクリーンアップを担うことが多かった。
[編集] 経歴
- キューバでは例外なく、野球選手はキューバベースボールアカデミーを卒業した後、国内リーグに割り振られ、公務員として扱われる。キンデランは若いうちには注目されなかったが、国内リーグで徐々に頭角を現すようになった。
- そして、バルセロナオリンピックで初めてキューバナショナルチームに選出され、以後アトランタ、シドニーと3大会連続でオリンピックに出場。中軸打者として金メダル2個、銀メダル1個獲得に大きく貢献する。
- キューバは共産主義国家であるため、海外のプロリーグでキューバ人プレーヤーが契約することはできなかった。特にキューバはアメリカと正式な外交ルートがなく、キューバ人プレーヤーがメジャーリーグでプレーするには亡命することが必要であったが、キンデランは「キューバのために戦う」と亡命することはなかった。
- また、日本のプロ野球チームも獲得に動いたことがあったが、同様にプロチームへの入団を拒絶された。
- アトランタオリンピック前後、キューバは方向転換をし、金儲けを目的としないのであれば国外におけるプレーを認容するようになっていた(中日に入団したオマール・リナレスも、あくまでも野球の研修という名目で、年俸は二軍選手並みであった)。そんな中キンデランも、過去からキューバ人を受け入れてきたシダックスに、アントニオ・パチェコとともに2002年に入団した。シダックスでの背番号は46。
- チームでは主にDHとして4番を打っていた。2002年秋に監督に就任した野村克也は当初、キンデラン、パチェコともに高齢(38歳)であったことから、「期待はしていない」と言明していたが、試合を通してなお豪快な打撃を見せたことから、野村もキンデランを4番に据え、「打撃の中心」と評するに至った。
- 2003年に行われた第74回都市対抗野球では、キンデランは全試合で4番を打ち、4本塁打を放ち、外国人として史上初めて「久慈賞」(敢闘賞に該当する)と「打撃賞」を受賞した。
- 2004年オフ、高齢からくる体力の衰えを理由に引退を表明、パチェコとともにキューバに帰国した。この年のシーズン後半、キンデランは下半身に故障を抱え、満足に走ることもままならない状態だった。
2005年にシダックスは都市対抗野球東京2次予選で第2代表となったが、野村は「投打の柱(投手は読売に入団した野間口貴彦、打者はキンデラン)が抜けたことでチームが小粒になった」と嘆き、その存在の大きさを改めて知らしめる結果となった(キンデラン在籍中、シダックスは2年とも東京第1代表を勝ち取っていた)。
[編集] 2大大会における通算成績
年 |
チーム |
大会 |
試合 |
打数 |
安打 |
本塁打 |
打点 |
三振 |
四死球 |
打率 |
2003 |
シダックス |
都市対抗 |
5 |
20 |
12 |
4 |
9 |
1 |
3 |
.600 |
2004 |
シダックス |
都市対抗 |
3 |
12 |
1 |
1 |
2 |
3 |
0 |
.083 |
|
|
日本選手権 |
2 |
8 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
.000 |
合計 |
|
|
10 |
40 |
13 |
5 |
11 |
5 |
3 |
.325 |
[編集] キューバ国内リーグ打撃成績(21シーズン)
[編集] 主な表彰・タイトル
[編集] 関連項目