堀越公方
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堀越公方(ほりごえくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆国堀越を本拠地とした。
1457年、室町幕府8代将軍足利義政が関東で勢力を振るう足利成氏への対抗策として、天竜寺で僧籍にいた弟の足利政知を還俗させ、正式な鎌倉公方として送った。しかし鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まる事になり、そこに御所を建設した。これが堀越公方の始まりである。
堀越公方には山内上杉氏や渋川義鏡などがついたが、実権は全て京都の幕府に握られておりとても脆弱な構造であった。その為か、関東からの支持・協力も得る事ができなかった。その後、政知は幕府の抗争を利用し、将軍足利義材を廃して自分の末子・足利義澄を将軍職に就ける計画を企てるが、1491年に病没。後継には次男の足利潤童子が選ばれていたが、牢に閉じ込められていた異母兄の足利茶々丸により母もろとも殺害され、2代目堀越公方には茶々丸が就任する。
1493年(異説あり)伊勢盛時(後の北条早雲)により御所が攻撃され、茶々丸は火を放って自害した。一説には明応の政変によって義澄が将軍に就任した事で、茶々丸が「将軍の生母」殺害犯として追討されたからであると言われている。ここに堀越公方はわずか36年で滅びたのである(異説あり)。