墨子
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墨子(ぼくし 生没年不詳)は中国戦国時代の思想家。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い愛(兼愛)を説いて全国を遊説した。諱は翟(羽の下に隹)という。
最初、儒学を学ぶも満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団を築いた。魯の生まれとも宋の生まれとも言われている。また墨(いれずみ)という名前から、入れ墨をした罪人であったとも考えられる。
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[編集] 著書
著書『墨子』は墨子本人やその弟子が書いた本。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によるものとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。
- 第一構成 「親士」「修身」「所染」「法義」「七患」「辞過」「三弁」
- 断想集。
- 第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」
- 「十論」。墨子の主要論考。
- 第三構成 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」
- 「墨弁」。墨子の哲学的著作集。
- 第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
- 言行録、説話集。
- 第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗織」「号令」「雑守」他に散逸して編名が分からないもの10編
- 城(すなわち市街地)を攻め守る技術論集。
[編集] 墨子の思想
[編集] 兼愛
「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。
[編集] 非攻
一言で言えば、非戦論である。墨子直著と見られ、「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか!」と絶叫している。そして大国が小国を攻める事に反発し、攻撃を受けた城に行って、防衛の指導をしていた。防衛には物理的な知識を活用しており、墨子にはその理論が書かれている。墨家の防衛の硬さから墨守と言う言葉が生まれた。
[編集] その他
親士は「人材を大切にせよ」ということ。所染は「何に学ぶか」ということ。七患は君主の犯す過ちの例。尚賢は「どんな身分でも、いい人材は正当な評価をうけるべき」ということ。節葬は「葬儀を簡素にせよ」ということ。天志は暴政の批判。非楽は音楽に贅を尽くすことの否定。非命は宿命説の否定。非儒は儒家非難、第四構成はすべて墨子とその弟子や儒家との対話や討論である。
[編集] 全体像
『墨子』では多くの論で儒家と対立する事が主張されており、儒家を批判している。また墨家は戦国時代には儒家を圧倒するほどの勢力を持ち、「儒墨」と称され主流の学派であった。特に秦では強い力を持っていた。しかし秦の統一後は存在意義を失い、更に前漢初めに弾圧を受けて消滅した。
[編集] 逸話
楚の王は伝説的な大工魯班の開発した雲梯(攻城用のはしご)の性能を試すため、墨子と模擬戦を行わせた。その結果、墨子は魯班の攻撃をことごとく撃退したという。この逸話から「墨守」という故事成語が生まれた。