夏 (三代)
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夏
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夏(か 紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)は、中国最古の王朝。次の商王朝(いわゆる「殷」)と異なり、文字資料をともなった考古学上の発見がなく、実在した確実な証拠は現在のところなく、「伝説上の王朝」である。「夏」という名称も、商王朝が倒した前王朝をこう呼んでいたということに過ぎず、彼ら自身の自称は永遠に闇の中である(「殷」も周が前王朝をそう呼んでいたに過ぎない)。
しかし、『史記』をはじめとする中国の史書では、確かな歴史として書かれており、近年の中国考古学の実績からも、実在していた可能性が非常に高いものと見なされつつある。商王朝の伝承においても、もし夏が実在しないのならば、わざわざ「前王朝を倒して簒奪した」というエピソードを捏造してまで後世に伝えたことになり、それに合理性を持たせられないとする。王朝名は「夏后」ともいう。史書には471年間続いたという記録が残されている。初代の禹から、末代の桀まで、14世17代である。都は二里頭であるとされている。
目次 |
[編集] 夏の歴史
『史記』の夏本紀に拠れば、夏は以下のような歴史をたどった。
[編集] 禹の創業
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水などの功績をなし、大いに認められた。また、禹の人柄を愛する人も多かったので、舜は禹を自分の後継者にしようとした。禹は舜の死後、3年の喪に服した後に、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めず彼の下に行かなかったため、禹が帝位に就いた。陽城に都したと言われている。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、まもなく彼が死んだので、かわって益に政治の補佐をさせた。
[編集] 最初の世襲王朝
禹の死後、本来後継者は益であったのだが、益が政治を執るのにまだ慣れていなかったこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲であるという。
帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかったために、これを討った。
啓の死後、子の太康が後を継いだが、史記によれば、「国を失った」といい、彼の五人の弟たちは「五子之歌」をつくった。
- 「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」(『史記』夏本紀)
この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らないことを弟達が恨んだ歌である。このことから、おそらく、太康が遊楽にふけり民のために働くことをしなかったので、国を追放されたのだと解釈されている(孔安国の説による)。
太康の死後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が淫楽にふけっていたので、胤(胤は名前とも、国の名前ともいう)に命じて、羲氏と和氏を討たせた。
『史記』には、中康の後の帝達については特に事跡が伝えられていない。
[編集] 夏の衰退と滅亡
中康の11代後の孔甲は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好んだ。そのため、諸侯の心は夏王朝から離れていった。このころになると、夏の徳も衰えてきたのである。
桀は人徳がなく、武力で諸侯や民衆を押さえつけ、諸侯や民衆に憎まれた。商の湯を呼びつけ、夏台にて牢獄につないだ。湯はゆるされて解放されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついには桀を倒した。桀は鳴条に逃げたが、そこで死んだ。 桀の伝説は、殷の紂のそれと大変酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。
[編集] 夏のその後
商の湯王は、夏の血を引く者を夏亭(史記正義によるとこの地)に封じた。周代においては、杞において諸侯に封じられている。
[編集] 夏の帝の一覧
- 帝禹
- 啓 禹の子
- 太康 啓の子
- 中康 太康の弟
- 相 中康の子
- 少康 相の子
- 予 少康の子
- 槐 予の子
- 芒 槐の子
- 泄 芒の子
- 不降 泄の子
- 扃 不降の弟
- 廑 扃の子
- 孔甲 不降の子、廑の従兄弟
- 皐 孔甲の子
- 発 皐の子
- 桀 発の子
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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