多鈕細文鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は、鏡の裏面に紐を通す鈕(ちゅう)が2、3個付いており、細線の幾何学紋様を施した朝鮮半島系の銅鏡である。弥生時代中期前半に伝わった。
目次 |
[編集] 概要
日本列島では、縄文時代に金属製の鏡が大陸から伝わっていなかったが、弥生時代に入って最初に出現したのが中国鏡ではなく、多鈕細文鏡であった。この鏡は、朝鮮半島を中心に一部は遼寧省や沿海州など東北アジアの一角に拡がった。弥生時代中期前半になると日本古来の勾玉(まがたま)などと一緒に副葬品に加わった。近畿地方へは、弥生時代中期頃に銅鏡伝播の第一波として多鈕細文鏡がもたらされた。 流行は短期間であったが、九州から近畿、さらに中部地方(長野県)までの大変広い範囲まで流布している。
[編集] 鏡副葬の習俗
北九州や山口では、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)という三種の青銅器武器と共に埋納されていた。このことは、地域の支配者達の副葬品に定型化が急速に出来つつあったと考えられる。 多鈕細文鏡流行期より50~100年後の中国鏡が大量にもたらされた弥生時代中期後半になると、地域の支配者の墓に一死者一面に限らず、中国や朝鮮半島には例のないほどの大量埋納が行われた。これは、倭人社会特有の現象であり、この習俗は古墳時代にまで継続されるこのとになる。 用途については、化粧道具ではないかという見解や中国の古典でいう太陽の光を集めて火をとる採火器陽燧(ようすい)が多鈕細文鏡ではないかとの見解も出ている。鏡は一つの性格として太陽信仰に結びつくものである。
[編集] 早良国
1985年2、3月に調査された福岡市吉武高木遺跡の3号木棺墓から多鈕細文鏡がほかの青銅製武器とともに出土している。この遺跡が『魏志』倭人伝の伊都国と奴国との中間地点にあり、その群名をとった「早良国」(さわらこく)という名で話題となった。
このほか佐賀県唐津市の宇木汲田(うきくんでん)遺跡、山口県下関市の梶栗浜(かじくり)遺跡、大阪府柏原市大県(おおあがた)遺跡、奈良県御所市名柄でも副葬品として埋納されていた。さらに、長野県佐久市野沢地区原遺跡では、破片を加工し二つの孔をあけて呪符か護符に転用された形で出土している。
[編集] 中国鏡との比較
多鈕細文鏡と中国鏡との間には多少の違いが見られる。鈕の数は前者が2、3個に対して後者が一つ、鏡面は前者が凹面で後者が平面かやや凸面、文様は前者が幾何学文で後者が神仙界の図文ほか多様、銘文は前者にはないが後者にはある場合が多い。 大きさは、両者ともほぼ同じで、形もともに円形である。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 銅鏡 | 考古学