夢路いとし
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夢路 いとし(ゆめじ いとし、1925年3月27日 - 2003年9月25日、本名:篠原博信(しのはら ひろのぶ))は、実弟である相方・喜味こいしとの「しゃべくり漫才」で上方演芸界にその名を知られる漫才師である。
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[編集] 来歴・生涯
神奈川県横浜市出身。上方漫才界の人物であるが横浜市出身なのは、一家が旅回りの芸人一家であったため、たまたま横浜で生を受けたという事情によるものである。横浜以外にも、全国津々浦々の地を少年時代からまわっていた。
1940年に法善寺横町にあった大阪花月劇場にてデビュー、当時のコンビ名は「荒川芳博・芳坊」。師匠は荒川芳丸。それからは全国各地にあった吉本が運営する寄席(ミナミの南陽館など)で稽古を積む。 1948年に「夢路いとし・喜味こいし」に改名。以後、上方漫才の第一人者として50年余の長きに渡り第一線で活躍。二人の漫才は後輩芸人たちにとっても色々な意味で鑑であり、「老境に入れば、『いと・こい先生』のような漫才をやりたい」と述べる者も少なくない。
芸名を改名するに当たって、この「いとし・こいし」という芸名を芳博が考え、じゃんけんでどちらの芸名を取るか決めた。そして芳博がいとしの芸名を付けることにしたが、「屋号=苗字がいるだろう」ということで、芳博=いとしは「月丘夢路(女優)のファンだから」ということで「夢路いとし」という芸名にしたという経緯がある。「がっちり買いまショウ」の司会でも有名で、「10万円7万円5万円、運命の分かれ道」などの早口芸や顔芸などもやっていた。
「ぼくたちは常にナンバー2」がモットー。時代・世相を柔軟に取り入れることができ、特にいとしについては、年齢にふさわしい自然なボケを展開していた。肩の力の抜けた「ボケ」味は年輪を重ねるごとにその面白味を増し、(本当に老人性のボケか?と思わせておいてきれいに切り返してしまう、というネタも晩年にはよく披露していた)老若男女を問わず観衆を笑いの渦に巻き込んでいた。決してダイラケのような奇想天外なネタではなかったが、ひょうひょうとした味わいは何物にも代えがたく、おかしみを誘うものであった。
ネタの一例(い→いとし、こ→こいし)
い:ボク、こないだ単車買いましてん。
こ:ほうほう。
い:あれは便利なもんですな。
こ:そうやねぇ、なんちゅうても小回りが利く。
い:こないだも御堂筋を甘い~甘い~ゆうて、そら楽やったで。
こ:ちょっと待て、甘い甘いてどんな単車や。
い:ん?甘い~甘い~っちゅうて…あ!スイ~っとスイ~っとやったわ。
こ:あほか!
1995年に紫綬褒章、1998年秋には勲四等旭日小綬章をそれぞれ受章。 1999年11月には大阪市指定無形文化財に指定。
2003年9月25日0時35分、肺炎の為兵庫県内の病院で永眠。享年78。
[編集] 出演
[編集] テレビドラマ
- 水戸黄門 第9部(1978年 TBS・C.A.L.)第5話「黄門様のそっくりさん・仙台」 甚兵衛役
- 古畑任三郎 第20回(2nd Season 第7話)「動機の鑑定」 川北百漢役
- てるてる家族 第13回(2003年 NHK連続テレビ小説)梅田スケートリンクの貸し靴屋役-最後のテレビ出演