大井成元
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大井 成元(おおい しげもと、文久3年9月10日 (旧暦)(1863年10月22日) - 昭和26年(1951年)7月15日)は、日本の陸軍軍人、華族。第8・第12師団長・浦塩派遣軍司令官や軍事参議官を歴任し、歴戦の功から男爵の爵位を授けられる。軍を退いてからは貴族院議員や内閣参議等を務める。官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵。旧名菊太郎。
大井又平の三男として生まれる。明治14年1月陸軍士官学校に入り、明治16年12月卒業する。12月25日歩兵少尉に任官され歩兵第14連隊第2大隊付を命ぜられる。士官生徒第6期(陸士旧6期)の大井の同期には東京衛戍総督の仁田原重行大将や、台湾総督兼台湾軍司令官の明石元二郎大将、関東軍司令官立花小一郎大将がいる。明治17年6月歩兵第23連隊第1大隊小隊長に進み、明治19年1月から陸軍大学校に入校する。翌年4月に歩兵中尉に進級し明治21年11月陸軍大学校を卒業する。明治22年12月から参謀本部出仕となり、明治23年2月ドイツへ留学する。ドイツではプロシア歩兵第113連隊に配属される。明治26年12月歩兵大尉に進み明治28年2月帰国する。同年4月第2軍参謀に就任し出征する。同5月台湾総督府参謀となり、12月に帰還する。明治29年1月陸軍大学校教官に就任し同5月参謀本部第3部員兼陸軍大学校教官となる。10月から参謀本部第3部員を免ぜられる。明治30年10月から監軍部副官心得を兼ね、明治31年4月20日から陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官心得を命ぜられる。同年10月陸軍少佐に進み陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官に補され、明治33年5月から陸軍省総務局機密課長代理を兼ねる。明治35年5月2日からドイツ公使館附を命ぜられ明治39年2月3日に参謀本部附を命ぜられるまでドイツで務める。この間明治36年2月に歩兵中佐に進級し、明治38年3月1日歩兵大佐に進む。明治39年1月にはドイツ公使館が大使館に昇格する。
ドイツから帰った大井は明治39年8月8日陸軍省軍務局軍事課長に就く。明治42年1月28日陸軍少将に任官され歩兵第19旅団長に補される。明治45年3月5日から近衛歩兵第2旅団長に移り、大正元年11月27日から陸軍大学校長に就任する。大正3年5月11日陸軍中将に進み第8師団長に親補される。大正7年7月から第12師団長に移り、この時シベリア出兵に参加する。大正8年8月27日から浦塩派遣軍司令官に就任、同年11月25日陸軍大将に進み勲一等瑞宝章を受章する。大正9年7月帰還し、同年11月1日功により勲一等旭日大綬章及び功一級金鵄勲章を受章する。大正10年1月6日から軍事参議官に就任する。同年4月18日シベリア出兵の功により男爵の爵位を授けられ華族に列せられる。大正12年3月17日待命、同3月20日予備役となり、大正13年3月から男爵議員として貴族院議員に就任する。大正13年4月から恢弘会会長に就任。恢弘会は在郷の陸海軍将校の結社で、親睦会ではあるが在籍しているのは反長州閥の軍人ばかりだった。昭和4年4月後備役、同8年4月退役し昭和15年2月から8月まで内閣参議を務める。昭和26年7月15日薨去。墓所は東京都・多磨霊園、戒名は成満院釋元忠。