太田資次
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太田資次(おおた すけつぐ)は、遠江浜松藩の第2代藩主。のちに大坂城代となる。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永6年(1629年) | |||
死没 | 貞享元年4月6日(1684年5月20日) | |||
戒名 | 道雄日健見性院 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、摂津守 | |||
幕府 | 江戸幕府奏者番→寺社奉行(兼任)→ 大坂城代 |
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藩 | 遠江浜松藩主→河内・摂津国内 | |||
氏族 | 太田氏 | |||
父母 | 父:太田資宗 | |||
兄弟 | 太田資政、太田資次、太田資良 | |||
妻 | 正室:本多忠利の娘 継室:宗義成の娘 継室:能勢頼次の養女(松平昌重の娘) |
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子 | 太田資直、娘(内藤弌信室) |
寛永6年(1629年)、浜松藩の初代藩主・太田資宗の次男として生まれる。早くから第3代将軍・徳川家光に近侍し、慶安4年(1651年)12月28日に従五位下に叙位される。寛文11年(1671年)12月19日、父の隠居で家督を継ぎ、第2代藩主となる。このとき、弟の太田資良に3,000石、並びに新田2,000石を分与したため、所領は3万5,000石から3万2,000石となった。
延宝元年(1673年)に奏者番に任じられる。延宝4年(1676年)7月26日に寺社奉行を兼任する。延宝6年(1678年)6月19日、大坂城代に任じられたため、2万石を加増された上で所領を摂津・河内・下総などに移されたため、浜松藩から去って畿内周辺に移封となった。
貞享元年(1684年)4月6日に死去。享年56。後を次男の太田資直が継いだ。
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