夫差
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夫差(ふさ ? - 紀元前473年)は中国春秋時代の呉の7代目で最後の王。春秋五覇の一人。
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[編集] 略歴
[編集] 概要
6代目の王の闔閭の次男である。兄に早世した太子波(終累)が、弟に公子子山がいる。子に太子友と公子姑曹(姑蔑)と公子地ら数人、孫に公孫弥庸(姑曹の子)(『春秋左氏伝』では王子、王孫となっている)。
父・闔閭が越王勾践によって討たれた父の仇を討つために名臣伍子胥の補佐を受けて、一時は覇者として号令を称えるまでになったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
[編集] 臥薪嘗胆
父・闔閭は勾践が范蠡の補佐を受けて伸張して来た時に越に攻め込んだ。だが逆撃され、父・闔閭は越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指を破壊し、それが原因で破傷風となり死んだ。父・闔閭は臨終する前に夫差の兄弟である公子子山(実際は闔閭は夫差よりも、末子の子山の器量を買ったが、伍子胥の進言で断念したという)との後継者争いを避けるために急いで夫差を呼んで、自分の後継者とすべく「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな。」と遺言し、この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにしたと言う。(故事:『臥薪嘗胆』)
伍子胥の補佐を受けて国力を充実させていたところ、それを恐れた勾践は呉に攻め込んで来たが、反撃して勾践を追い詰めた。追い詰められた勾践は命乞いをしてきた。伍子胥は許さないようにと言い、宰相の伯嚭(はくひ、嚭は喜に否)は許すように言った。実は伯嚭は越から賄賂を受けており、越の策略に乗せられた夫差は勾践を許して帰国させた。
その後、夫差は伸張した国力を背景に北の黄河流域へと進出して、覇者になる事を夢見た。だが伍子胥は越の復讐を恐れて北へ進出することを諌めた。このことで夫差は伍子胥に辟易し、伍子胥は自分が呉を支えているという意見の衝突で主従関係が上手くゆかなくなり、紀元前484年に伯嚭の讒言で伍子胥に死を賜り、自決用の剣を授けて、こうして伍子胥は非業の自決を遂げた。この裏には范蠡の反間の計があったとも言われる。
[編集] 凋落
紀元前485年、夫差は軍を率いて斉を討ち、会盟を開いて呉が諸侯の盟主であると認めさせようとした。だが、元からの華北の盟主的存在であった晋がこれに反対した。
紀元前482年、晋と呉での主導権争いが起こる。その時、呉本国が越に攻められ、留守を委ねたその息子である太子友が捕虜となり(但し、末子の公子地は無事に逃亡し、以降から呉の世子になったという)、兄弟と共に処刑されたと言う報告を受ける(春秋左氏伝)。夫差は驚き、これに狼狽していたために、このことが諸侯に洩れれば、恥を曝すことなり、主導権を取れなくなると考えて、口止めをした。だが、ある者がこのことを漏らしたために、激怒した夫差はその容疑者を調査し、結局7人の容疑者が摘発され、これを処刑したという。
晋との盟主の座を争った結果、晋の大夫の趙鞅が武力に物をいわせて恫喝したので、止むなく夫差は諦めたと言う。その帰途で伯嚭の進言でわざとゆっくりと帰国し、途中で宋を攻めたりした。越も呉を一息に滅ぼすほどの力は無く、いったん和睦した。
その後も越による激しい攻勢を受け、紀元前473年に遂に首都の姑蘇が陥落して、夫差は付近にある姑蘇山に逃亡した。そして、太夫の公孫雄(呉の公族?)を派遣して、公孫雄は裸となり、勾践の前で「夫差は越王勾践さまに対して、一度命を助けたのですから、あなたも一度夫差の命を助けていただけないでしょうか?」と額を地面に擦り付けて必死に夫差の命乞いをしたという。だが、范蠡と文種らは「ここで夫差を許してはいけませんぞ。なんのために22年間も辛苦を味わったのかわかりませんぞ!」と激しく諌めたが、勾践は「ならば、夫差を甬東(=ようとう、現/舟山諸島)という辺境に流せば再び再起する事は出来まい」と言い、范蠡も文種も「それならば…」と大いに賛成した。こうして公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えた。
だが、夫差はこれを断り、「私はもう年老いたから、もう君主に仕えることはできない」と言い、「伍子胥にあわす顔が無い。」と言って顔に布をかけて自殺した。勾践は夫差の死に憐れみを感じて、丁重に厚葬した。そして、元凶となった伯嚭を処刑したという。こうして呉は滅亡した。