呉 (春秋)
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呉(ご (Wu)、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
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[編集] 歴史
[編集] 成立
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。それは周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。
しかし、この逸話は実際に南方の蛮族である呉が後に春秋の覇者となった時の美談として創られた可能性が高いと見る史家も多く、どうやら太伯と虞仲の末裔は、呉の兄弟国(実際に呉とは別系統らしく、虞は周王室の連枝という)とされる、夏の古都を拠点とした虞(山西省を拠点とし、後年に大夫の百里奚の諌言を聴き容れなかった虞公は、晋の献公の言いなりされた挙句に滅ぼされた)のことを指すらしい。
[編集] 興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、夫差を攻め殺した。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
呉や越が中原諸国を圧倒できた理由に製鉄技術があったといわれる。当時の中原諸国の製鉄技術は低く悪金と呼ばれ、農具などには使われていたものの武器に使える強度ではなかった。しかし、呉越地方では鉄製の剣や矛が作られ大きな威力を発揮したという。闔閭の墓にはそういった名剣が三千本も埋葬されたといわれていて、秦の始皇帝が探させたが見つからなかった。
ちなみに中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、それが日本にも伝えられて林羅山などの儒学者に支持された。徳川光圀がこれを嘆いて歴史書編纂を志したのが『大日本史』執筆の動機だったといわれている。