宇文化及
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宇文 化及(うぶん かきゅう、? - 619年)は、中国の隋の人。北周の左翊衛将軍宇文述の長男、許皇帝。
宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄。
[編集] 解説
代郡武川鎮(現在の内蒙古武川県)の出身であるが、若くから国都長安で育った。その頃「軽薄公子」と渾名されていた。
若い頃から楊広から寵愛を受け、楊広の即位後は太僕少卿に就いた。
また616年、宇文述が没する際、その遺言で右屯衛将軍を務めた。
618年、江南の江都(現在の揚州)に難を逃れたまま国都大興城へ帰ろうとしない煬帝に対し、司馬徳戡、趙行枢、薛世良らに反乱の首謀者に推された。化及は、弟の宇文智及とともに禁軍を伴って宮中の煬帝を弑殺した。化及は、煬帝の弟である蜀王秀の子、秦王浩を擁立し、自らを大丞相と号して北上したが、王世充、李淵、李密らの勢力に阻まれ、国都に戻ることは果たせなかった。そこで秦王浩を毒殺し、魏県を根拠地として自ら帝に即位した。国号を許、年号を天寿とした。
619年、竇建徳に聊城で敗れると、部下の宇文智及らは処刑され、自らはその子宇文承基、宇文承趾とともに襄国に運ばれて斬首された。化及の首は突厥に嫁いだ煬帝の娘である義成公主に送られた。