安徳王 (北斉)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姓名 | 高延宗 |
年号 | 隆化 576年-577年 |
廟号 | - |
字 | 仁綱 |
諡号 | - |
生没年 | 544年-577年 |
在位 | 576年-577年 |
父 | 高澄(第五子) |
母 | 陳氏 |
安徳王(あんとくおう 544年-577年 在位576年)は中国北斉6代目皇帝(ただし正史では認められていない)。諱は延宗。高澄の息子で高長恭(蘭陵王)は兄。
[編集] 略歴
本来ならば嫡流であったはずなのだが、父親が暗殺されてその弟の文宣帝が跡を継いだため、傍系になってしまう。しかし、文宣帝の寵愛を受け安徳王に封ぜられる。
剛毅硬直な人物で、兄の高長恭が北周・突厥の連合軍を破り凱旋したときも、一人だけ「四兄様は戦いがお解りでない。どうしてそのまま周を攻め取ってやらなかったのだ」と言ったが、兄が後主に毒殺されると激しく悲嘆したという。
高長恭と斛律光が粛清され、また陳に侵食されたのを契機に北周による侵攻が開始された。その中祖廟を守るべく奮戦するも、北斉軍は壊走し状況が緊迫してきた。副都晋陽に北周軍が達するに及び、後主に対し徹底抗戦を主張したが、後主は全責任を安徳王に押し付けて逃走してしまう。そのため部下の将帥たちから皇帝として擁立され、北周の軍勢に対抗した。結局は北周に大敗し晋陽は陥落、捕らわれの身になってしまう。
その後は賓客として待遇されたがそれを甘受せず毒薬を仰ぐことが数度あった、後に高一族が誅滅された際に、殺されるとことを潔しとせず自殺した。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
李妃
|
|
カテゴリ: 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 544年生 | 577年没