北斉
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北斉(ほくせい 550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に漢化した鮮卑族の高氏によって建てられた国。国号は単に斉だが、南朝の斉と区別するために北斉と呼ぶ。
国祖の高歓は北魏の六鎮の乱に加わったが、鮮卑の別部である奚族の酋長の爾朱栄に帰順して大いに名を上げた。爾朱栄が国政を壟断して孝荘帝に殺されると自立して、爾朱一族を殲滅し奚の有力部族の爾朱部を滅ぼした。孝武帝を擁立して丞相になり北魏の実権を握った。後に孝武帝が宇文泰の元へと逃げられると孝静帝を擁立して東魏を建国、西魏と張り合った。
547年に高歓が死ぬと長子の高澄が後を継ぐが、その直後に河南大行台の侯景が背いて州都もろとも梁に帰順するという事件が発生する。高澄は慕容紹宗を派遣して侯景・梁軍を撃破、事なきを得る。敗れた侯景は梁に投降するが、その梁が東魏と修交を結ぼうとしたため侯景の乱を引き起こして梁を滅亡させる。
侯景の謀反を切り抜けた高澄であったが、酒乱による暴虐がつのって550年、梁からの降人、蘭京によって殺される。 高澄の弟である高洋(文宣帝)が後を継いで乱を素早く収拾すると、その勢いで孝静帝を廃して建国。
北周と争い、歴代の君主の軍事能力で互角の戦いを繰り広げるものの後主が王位に就いてからはその悪政によって政治が乱れ、奸臣たちの讒言によって高長恭や斛律光などの名将たちが粛清されると一気に劣勢に立たされて、577年に北周に滅ぼされる。
27年間と存続した年数は短いものの、蘭陵王の高長恭がいるので知名度は高い。後主と廃帝殷を除いての歴代の君主は戦争には強いが酒乱で暴虐であり、特に最後の後主は凝った方法で人を殺したので、中国の酷刑史を紐解けば明と並んで北斉の名が出てくる。
[編集] 北斉の皇帝
- 顕祖文宣帝(高洋、在位550年 - 559年)
- 廃帝殷(高殷、在位559年 - 560年)
- 粛宗孝昭帝(高演、在位560年 - 561年)
- 世祖武成帝(高湛、在位561年 - 565年)
- 後主(高緯、在位565年 - 576年)
- 安徳王(高延宗、在位576年)
- 幼主(高恒、在位577年)
[編集] 主な人物
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