完顔允中
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完顔允中(かんがんいんちゅう、ワンヤンユンチョン、?-1194年)は、金の第五代皇帝である世宗の庶長子。姓は完顔で女真名は不明。諡号は厲王。生母は張元妃。同母弟に越王允功がいる。
[編集] その生涯
異母弟の允恭(顕宗/宣太子)が嫡子のために、彼は皇太子に指定されなかった。1161年に許王・大興尹に封ぜられた。1165年に越王・趙王・漢王に昇進した。だが、父から疎まれおり、また彼自身が礼節制度に無頓着で粗雑な箇所があり、そのことで父帝の逆鱗に触れてしまい鎬王、さらに并王に降格されたという。
父が亡くなり、甥の章宗(亡き允恭の次子)が跡を継ぐと、引き続き亡父同様に警戒された。また、些細なことで彼は甥と軋轢を起こしてしまい皇帝から謹慎を命じられた。これに不快を感じた允中は「わしは先帝の長男だぞ。何故、弟の子である若造の皇帝の指示を受けねばならんのだ?」と叫んで、現職の辞任を申請したが、章宗は伯父の申請を冷たく却下したという。
歳月は流れ、彼の妻の弟の高陀斡が允中の安泰を願って祈祷者を呼ぶと、監視していた章宗は「伯父上はわしの子を呪い殺すためにやっておるのだ!」と因縁をつけて、直ちに高陀斡を投獄して処刑した。(事実、章宗の六人の皇子はいずれも夭折している)義弟が甥に処刑された報を聞き激怒した允中は「麻達葛(章宗)めが、何故わしの無実な義弟を殺すのだ?もう許せんぞ!」と憤激した。彼は長男の神徒門と次男の阿離哈懣(アリハンマン)らとクーデターの準備をした。だがこの機会を窺っていた章宗は先手を打ち、伯父一家を逮捕して投獄したという。1194年に允中は子の神徒門と阿離哈懣と共に処刑され、晒し首になったという。
だが、允中一家の死後に何故か章宗の子の絳王洪裕・荊王洪靖・栄王洪熈・英王洪衍・寿王洪輝…そして末子の葛王洪隣(後に忒隣=トンリン)らが満一歳も満たないうち死亡したこともあり、さすがの章宗も病にかかってしまったという。そして床に臥せている章宗は「わが子達が全て死亡したのは亡き伯父上の祟りに相違ない」と洩らして、1207年に厲王の諡号を送ったという。翌年、章宗も伯父の後を追うように崩御した。
[編集] 子女
- 神徒門
- 阿離哈懣
[編集] 参考書
「中国歴代皇帝人物事典」(監修 岡崎由美&王敏 著)河出書房新社 ISBN 4309223427
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