章宗 (金)
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章宗(しょうそう、1168年-1208年)は金の第6代皇帝(在位は1189年-1208年)。漢名は璟。女真名は麻達葛(マダク)。諡は憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝。第5代皇帝である世宗の嫡孫。父は世宗の嫡男でその皇太子であった允恭。後に第8代皇帝となった宣宗は庶長兄に当たる。
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[編集] 治世
祖父の死後に帝位を継いで「明昌の治」と称される政治を行なった。礼制や法典・格式をはじめとして科挙、官制などの体制整備や常平倉の設置など積極的な行政改革を行った。これによって金は中国王朝としての姿を完成させることになった。
また、彼の治世において、金の文化は最高潮に達したといわれる。彼自身も文人との親交を楽しみ、詩文、書画に凝った。北宋の徽宗の書「痩金体」を模倣した書をたくさん遺している。
だが、彼の治世は金の衰退が兆した時代でもあった。周辺の属国の離反が起こるだけではなく、隣国の侵攻を受けることになった。殊にモンゴルが勃興したことは、金の将来に決定的な意味を持つ出来事であった。また、国内には華美な風潮が広まり財政を逼迫させた。
また、父親譲りの温厚な人柄として知られる一方で、伯父の并厲王允中(亡父の兄)とは仲が険悪だったために、1194年伯父が謀反を起こしたという口実をもって伯父の允中とその子の神徒門・阿離哈懣(章宗の従兄)兄弟を逮捕して、投獄した。やがて信頼する叔父衛紹王(亡父及び允中の異母弟)の諫言にも耳を傾けず、伯父一家を処刑して晒しものにしたという。
[編集] その死
1208年に41歳で崩じた。彼は既に六人の皇子が夭折していたために、世子がなく仲が良く同年代だった叔父の衛紹王が後を継いだ。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 欽懐皇后蒲察氏
- 李元妃
- 資明夫人林氏
- 其他姫妾
- 承御賈氏
- 承御范氏
[編集] 子
- 絳王洪裕
- 荊王洪靖
- 栄王洪熈
- 英王洪衍
- 寿王洪輝
- 葛王洪隣(忒隣)
[編集] 年号
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