宣宗 (金)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宣宗(せんそう、1163年-1223年、在位は1213年-1223年)は金の第八代皇帝で、第六代皇帝である章宗の庶長兄に当たり、宣孝太子の顕宗・允恭の庶長子である。姓は完顔、女真語名は吾睹補(ウトゥプ)、漢名は珣。生母は昭聖皇后(劉氏)。
目次 |
[編集] その生涯
初めは祖父の世宗から、升・翼・邢王と次々に封じられるが、後に豊王に昇格し、近衛軍である彰徳隊を率いて統轄したという。だが、1213年、叔父に当たる第七代皇帝・衛紹王が、対モンゴル戦争敗戦の責任を問われることを恐れた将軍の胡沙虎によって殺害されると、その後釜として新皇帝として擁立された。しかしその直後、胡沙虎も部下の朮虎高琪の裏切りに遭って、先手を打たれて殺害されたため、宣宗はやっと傀儡から脱することができたのである。
だがチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の勢いは凄まじく、遂に金の帝都・中都(現在の北京)まで包囲されてしまう。このため宣宗は、宰相で宗室でもあった完顔福興の進言もあって、屈辱的な条件で従妹の哈敦(ハトン)公主(衛紹王の娘)を嫁がせて、モンゴルと和睦している。
その後、宣宗はチンギス・ハーンの再度の侵攻を恐れて中都から開封に遷都したが、これがかえってチンギスの侮りと再度の侵攻を招き、1215年に中都はモンゴル軍によって落とされ、金は中国北部における領土の大半を失うことになったのである。
また、宣宗は軍事力の増強と財政の建て直しを図って財政政策を推し進めたが、これが失敗してかえってインフレが起きて経済の混乱まで招いてしまうことになった。また、王朝の弱体化を見て、それまで金に服属していた有力な漢人や契丹人の諸侯の自立傾向も目立つことになった。
1223年に宣宗は還暦を過ぎて死去したが、仮に生きていたとしても、このような皇帝では1234年の金の滅亡は避けられなかったに違いない。ちなみに、金が滅びた時の最後の皇帝であった哀宗は、宣宗の第三子である。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 明恵皇后(王氏)
- 王元妃
- 史麗妃
- 龐真妃
[編集] 子
- 荘献太子守忠
- 濮王盤都(荊王守純)
- 遂王寧甲速(守礼/守緒)
- 玄齢
[編集] 孫
- 皇太孫鏗(守忠の子)
[編集] 年号
|
|