寧古塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寧古塔(ニングダ、ねいことう、Ningouta)は清代から1930年代初頭にかけて、満州東部の牡丹江中流域にあった地名であり、清が満州を統治するにあたり重要な役割を果たした場所であった。現在の黒龍江省牡丹江市寧安市に相当する。
[編集] 清代の寧古塔
寧古塔は清朝を打ち立てた愛新覚羅氏の発祥の地であった。満州語では「6個」のことを「ニングダ」といい、愛新覚羅氏の遠い祖先にあたる6人兄弟がこの地にいたことに由来する地名といわれる。
寧古塔には旧城と新城がある。最初の寧古塔(旧城)は現在の牡丹江市海林県舊街鎮の海浪河南岸の盆地にあった。旧城は内城(周囲687m)と外城(周囲2,500m)で囲まれた小規模な都市であり、今もその遺構が残っている。海林周辺は農地としても肥沃であるほか林業・漁業・狩猟の適地でもあり、陸路や水路など交通の要所でもあった。
1653年(順治10年)、ロシア帝国の進出などで揺れていたアムール川(黒竜江)・ウスリー川沿岸一帯を抑える軍事組織である昂邦章京副都統が寧古塔城に置かれ、寧古塔は満州支配のための拠点として強化された。1662年(康熙元年)には昂邦章京は寧古塔将軍に改められ、寧古塔将軍は1666年(康熙5年)に海浪河より大きな河川である牡丹江に接した新城(現在の牡丹江市寧安市の寧安県城)に移転した。以後は新城が寧古塔と呼ばれることとなる。
1676年には寧古塔将軍は吉林に移駐してしまい吉林将軍と改称したが、寧古塔の城はこれ以後も寧古塔副都統が残り、満州東部の軍事・政治・経済の重要拠点であり続けた。沿岸の狩猟民族らが毛皮などの産品を携えて牡丹江やウスリー、アムールをたどり、寧古塔と交易を行った。遠くサハリン(樺太)や蝦夷地(現北海道)のアイヌ人も、黒竜江河口の少数民族を介して、寧古塔から来る絹など清の産品と毛皮などを交換する山丹貿易とよばれる貿易活動を行っていた。清代中期、牡丹江下流に建設された三姓(イラン・ハラ、現在のハルビン市依蘭県)の街が毛皮貢納を一手に引き受ける前は寧古塔がこれらの貿易を統括していた。
[編集] 近代の寧古塔
清代末期になると北京条約などによりアムール川以北やウスリー川以東はロシアに割譲され、毛皮貿易など少数民族相手の交易は衰える。また東清鉄道建設に伴いハルビンなどの街が建設されるが、それでも寧古塔は満州東部の数少ない都市でありロシアなどに対する軍事拠点だった。特に牡丹江沿岸にあたるため水田耕作に適した土地で、19世紀終わりから漢民族や朝鮮人が周辺に移住し稲作や畑作を始めた。
吉林省設置以降は寧安府、次いで寧安県が寧古塔に置かれたが、寧安県設置以後も寧古塔という名は慣用的に使用されていた。辛亥革命以降の混乱期には、寧古塔は中国人の革命運動や朝鮮人の抗日パルチザンなどさまざまな勢力の拠点となった。1930年代に日本が満州国をこの地に建国してからしばらくの間も寧古塔は農林業の集散地として栄えていたが、牡丹江市の建設により農林業上・軍事上の拠点としての地位を譲ることとなった。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 清朝 | 満州 | 黒龍江省