小倉城
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天守 | |
通称 |
勝山城、指月城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
連結式層塔型 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 |
細川氏、小笠原氏 |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀 |
位置 |
小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区にある城跡。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。
目次 |
[編集] 構造
渦郭式平城。城郭の中心に天守閣のあった本丸と松丸、北の丸。それらを囲い込むように二の丸、三の丸が配された。城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に城下町を形成する総構えをとった。城の南側の虎口には稜保式の出張りを作った。石垣は野積みで構成されている。その他平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を数えた。その構造は北九州いのちのたび博物館にある全体模型でうかがい知ることができる。現在、遺構として石垣・堀が残り、天守・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。
[編集] 天守
天守閣は、4層5重の層塔式天守。最上層が下層よりも張り出している唐(南蛮)造り様式である。
現在見られる天守は望楼式天守風で千鳥破風や唐破風などの装飾的な破風が見られるが、創建当時の小倉城天守は最上層の入母屋破風を除き、装飾的な破風は一切無く、簡素な造りだった。
[編集] 歴史
- 1600年、関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国と豊後国二国を領する。中津城に入城するが、1602年から7年かけて新たに小倉城を築城、そこに居を構える。
- 1632年、細川家が肥後国に移ると、譜代大名として、播磨国から小笠原忠真が15万石を領し、小倉城にはいる。以後、小倉藩藩主の居城となる。
- 1837年、天守閣が炎上。以後再建されず。
- 1866年、第二次長州征伐で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の手により小倉城は炎上。藩主は熊本城に避難した。
- 1867年、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城は灰燼に帰していたので、以後、藩庁は香春にあった奉行所に置かれた。
- 明治維新後、城跡に陸軍の砲兵部隊が置かれる。
- 1959年、鉄筋コンクリートで4層の天守閣が復興された。ただし、実際は層塔式だったものを望楼式風にするなど、史実とはやや異なる形をしている。
- 1998年、小倉城庭園および松本清張記念館が開館した。
- 2004年春から秋にかけての調査により、篠崎口~清水門の外堀で畝堀と堀障子が発見。忠興当時のものと考えられる。なお現在、天守閣内部は郷土資料館として利用されている。
[編集] 赤い背景
リバーウォーク北九州、が完成して以来、北九州市立中央図書館側から見た城の背景が赤く、風景として非常に異様である。
[編集] 交通
[編集] プラモデル
フジミ模型株式会社からフジミ建築モデルシリーズ天下の名城№6として1/400スケールでプラモデルが製造販売されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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