小山義政
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小山 義政(おやま よしまさ、生年不詳 - 弘和2年/永徳2年4月11日(1382年5月24日))は、中世・関東の武家、今も栃木県の市名として残る、小山(おやま)城(小山市城山町)に居した、小山氏第11代領主である。小山氏政の子。小山隆政(若犬丸)の父。彼の先代および先々代は、足利尊氏に加勢して、室町幕府の建設に寄与した。彼の生きた時代は、未だ近畿地方では南朝が残って室町幕府と争う、南北朝時代であった。
彼は、豪族としての小山氏の全盛期を築き上げ、それに伴い近隣の豪族・宇都宮氏との間で覇権争いが生じた。激しい争いの末、これを打ち負かして宇都宮基綱を敗死させたものの、勢力拡大を懸念する室町時代の鎌倉公方、足利氏満から反感を買い、宇都宮侵攻後、まもなく追討を受けた。彼は一旦は鎌倉公方に降伏し、家督を子の若犬丸に譲り隠居した。が1381年体勢を立て直して再び兵を揚げ、今度は関東公方に対し反乱を起こした。そして結局は足利氏満の呼びかけで集まった、関東・南東北地方の各地の武家連合軍の、総反撃を受けて撃破された。最期は、栃木県上都賀郡粟野町粕尾の、赤石が原の自城で自害したとされる。
なお、彼の子孫がその後も鎌倉公方に対しなおも抵抗を続けたが、彼の2代下で完全に戦いで絶えたと言われる。攻められた足利氏満も、もともと室町幕府の建設の功労のあった小山家を、完全に断絶とすることが政治的にできず、その後親縁を小山城に居城させて、その状態が戦国時代の後期まで続いた。
ちなみに彼の起こした反乱戦争は、皇室やその内部の対立が全く絡まなくなった(荘園を主体とする公家の力が衰微して、少なくとも関東地方の武家間の勢力争いの口実に、天皇や公家の名が全く出なくなったことを示した)、日本の歴史上初めての、大規模戦争であったとされている。
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