足利尊氏
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時代 | 鎌倉時代末期 - 室町時代初期 | |||
生誕 | 嘉元3年(1305年) | |||
死没 | 正平13年/延文3年4月30日 (1358年6月7日) |
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改名 | 又太郎、高氏、尊氏 | |||
戒名 | 等持院殿仁山妙義大居士 長寿寺殿 |
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墓所 | 京都市北区萬年山等持院 神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺 |
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官位 | 権大納言、征夷大将軍、正二位、 贈従一位左大臣 |
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氏族 | 清和源氏足利氏族(足利将軍家) | |||
父母 | 貞氏、上杉頼重娘清子 | |||
兄弟 | 高義、尊氏、直義 | |||
妻 | 北条守時妹登子、他 | |||
子 | 義詮、基氏、頼子、直冬、他 |
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利幕府(室町幕府)の初代征夷大将軍。正式な名は源 尊氏(みなもとの たかうじ)。
河内源氏の名門足利氏に生まれ嫡子となる。始めは、執権北条高時の諱を賜り「高氏」と名乗って鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。この功績により天皇の名(尊治)の諱を賜って「尊氏」と改名する。後醍醐天皇の執った建武の新政は武士の支持を得られず、これに蜂起した中先代の乱を鎮めた後は、鎌倉に留まり幕府設立の動きを見せる。これにより朝廷から討伐令を受け、幾多の戦いを経て大覚寺統を京から吉野に追い、持明院統から征夷大将軍に任じられ、後の室町幕府を開いた。
長く逆賊と評されたが、吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、天龍寺の造営などを行っている。
目次 |
[編集] 生涯
没落と栄光を繰り返した尊氏の人生は日本史上最も壮絶なものと言っても過言ではない。
[編集] 誕生から鎌倉幕府滅亡
生誕地は、綾部説(漢部、とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の三説がある。貞氏には北条顕時の娘・釈迦堂殿との間に長男の足利高義がいたが早世したので高氏が家督を相続することになる。難太平記によれば、尊氏の祖父である足利家時は、三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃しており、家内の北条氏に対する反感意識(北条氏は平氏であったから)の中、尊氏は育ったと考えられている。元服の際に鎌倉幕府執権北条高時より諱(いみな)を賜って「高氏(たかうじ)」と名乗る。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇による二度目の倒幕計画が発覚し、笠置において挙兵する元弘の変が起こると、高氏は鎌倉幕府から派兵を命じられ、天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。この時、出兵は父貞氏が没した直後で、高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じたため、高氏は幕府に反感を持つようになったと言われている(古典太平記)。幕府軍の攻撃の結果、天皇はじめ計画に関わった公家の日野俊基や僧侶など多数が幕府に捕えられ、天皇は翌年隠岐島に流される(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を立てる。
翌元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、船上山に篭城すると、高氏は西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛を命じられる。しかし、名越高家が、赤松円心に討たれると高氏は、後醍醐天皇の綸旨を受け天皇方に寝返り、所領である丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に対する兵を挙げる。近江の佐々木道誉などの御家人を従え、京都の六波羅探題を滅亡させる。上野国の御家人である新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子である竹若丸が混乱の最中に殺されている。
高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して、義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。
[編集] 建武の新政から南北朝動乱
鎌倉幕府の滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、高氏は官位と所領を与えられ、さらに天皇の諱の「尊治」から一字を賜り「尊氏」と改名した。尊氏は建武政権では足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟の足利直義を鎌倉将軍府執権とするのみで、自身は役職には就かずに政権と距離を置いており、このため征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉において開幕するつもりであったと考えられている。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。
後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守府将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は関東統治を名目に、直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させて開幕の布石としている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、護良親王は尊氏暗殺を試みるが、尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。
建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇は止む無く征東大将軍の称を与えている。尊氏は直義の兵と合流し、相模川の戦いで時行を駆逐して鎌倉を奪還する。
直義の意向もあってそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、幕府設立の既成事実化をはじめる。尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせる。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義、高師直など足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に反旗を翻す事を決意する。尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都奪回をめざす。この間に後醍醐天皇に退けられた持明院統の光厳上皇に懇願して逆賊の汚名を免れる工作をしている。建武2年から翌年にかけての京都占領をめぐる戦いで、尊氏は奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞に敗れ、京都奪還を諦めて赤松円心の進言により九州に下る。
九州では長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後、糟屋郡(現在の福岡市東区)の多々良浜において行われた多々良浜の戦いで宮方の菊池武敏を破り勢力を建て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を掲げ、西国の武士を傘下に集めて再び東上する。湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破って京都を制圧する。
京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れる。和議に応じた後醍醐天皇は光厳上皇の弟光明天皇に皇位を譲り、建武式目17条を定めて幕府の基本方針を示し武家政権の成立を宣言する。一方、後醍醐天皇は三種の神器を帯して京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った神器は偽であると宣言して南朝を開く。
[編集] 観応の擾乱から晩年まで
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延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職 1338年 - 1358年)正式に幕府(後に室町幕府と呼ばれる)を開く。翌年には後醍醐天皇が吉野で死去し、個人的親近感を持っていたとされる尊氏は、慰霊のための天龍寺造営費を捻出するために、元に対して天龍寺船を派遣している。
足利政権において尊氏は政務をほとんど直義に任せており、足利家家臣の高師直ら反直義派と直義派の対立が激化し、観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展する。尊氏はあくまで傍観者的立場を取るが、師直派にかつがれる形となる。正平4年/貞和5年(1349年)、襲撃を受けた直義が尊氏の邸に逃げ込み、師直の兵が尊氏邸を包囲して直義の引退を求める事件が発生し、直義は出家し政務を退く。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたという説もある。
直義が退くと尊氏は嫡男義詮を鎌倉より呼び戻し、次期将軍として政務を担当させるべく上京させ、代わりに鎌倉公方として次男基氏を下し、東国統治のための鎌倉府を設置する。さらに尊氏の庶子で直義の猶子となっていた直冬が直義を助け反乱を起こす。正平5年/観応元年(1350年)、尊氏が直冬討伐のために中国地方に遠征すると、直義は京都を脱出し南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従う。直義軍が強大になり、義詮が京を追われる劣勢になり、尊氏も直義に摂津国打出浜(兵庫県西宮市)で敗れると、尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351年)に和議が成立する。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺される。
義詮の補佐として政務に復帰した直義に対して、尊氏・義詮はともに佐々木道誉が謀反を企てたとして出陣し、実際には道誉の討伐には向かわず南朝方と和睦の交渉をして、元号を南朝のものに統一させる「正平一統」を成立させる。ここでも、道誉と尊氏・義詮との間に密約があったものと思われる。さらに、危機を感じて京都を脱出した直義を駿河国薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などで戦って破り、鎌倉に幽閉された直義は正平7年/観応3年(1352年)急死する。古典『太平記』は尊氏による毒殺ではないかと記している。
尊氏は、後醍醐天皇の皇子宗良親王や新田義貞の子義興・義宗、朝敵免除を受けていた北条時行などの南朝方を武蔵国各地で撃破し、関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ取って返し京都を奪回する。その後足利直冬は京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年/文和3年(1354年)にも京都を南朝に一時奪われるが、翌年に奪還。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、正平13年/延文3年4月30日(1358年)に京都二条万里小路邸で死去、享年54。直接の原因は史書によれば背中に出来た癰(よう、腫物)と記録されている。
[編集] 年表
和暦 | 西暦 | 月日 (旧暦) |
内容 | 出典 |
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嘉元3年 | 1305年 | 生誕 | ||
元応元年 | 1319年 | 10月10日 | 従五位下治部大輔に叙任 | 公卿補任 |
元応2年 | 1320年 | 9月5日 | 治部大輔辞任 | 公卿補任 |
元徳2年 | 1330年 | 6月18日 | 嫡子義詮誕生 | |
元弘2年 正慶元年 |
1332年 | 6月6日 | 従五位上に昇叙。 | 公卿補任 |
元弘3年 正慶2年 |
1333年 | 6月5日 | 鎮守府将軍。内昇殿許される。 | |
6月12日 | 従四位下左兵衛督に昇叙転任。 | |||
8月5日 | 従三位に昇叙し、武蔵守兼任。名を尊氏と改める。 | |||
元弘の乱 | ||||
建武元年 | 1334年 | 1月5日 | 正三位に昇叙。 | |
9月4日 | 参議に補任。左兵衛督如元。 | |||
建武2年 | 1335年 | 7-8月 | 中先代の乱 | |
8月9日 | 征東将軍宣下。 | |||
8月30日 | 従二位に昇叙。 | |||
11月26日 | 征東将軍を止む。 | |||
延元元年 建武3年 |
1336年 | 2月頃 | 多々良浜の戦い | 太平記 |
5月25日 | 湊川の戦い | 太平記 | ||
11月26日 | 権大納言に転任 | |||
延元3年 暦応元年 |
1338年 | 建武式目制定。 | ||
8月11日 | 正二位に昇叙。征夷大将軍宣下。 | |||
興国元年 暦応3年 |
1340年 | 3月5日 | 次男基氏誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。 | |
正平5年-6年 観応年間 |
1350年 -51年 |
観応の擾乱 | ||
正平7年 文和元年 |
1352年 | 2月26日 | 弟直義死去 | |
正平13年 延文3年 |
1358年 | 4月30日 | 薨去。 | |
6月3日 | 贈従一位左大臣。 | |||
弘和元年 永徳元年 |
1381年 | 4月28日 | 追贈太政大臣 |
[編集] 人物
『梅松論』などによれば、尊氏は後醍醐に背いて朝敵となったことを悔やみ、一時は出家を宣言する事があり、合戦において苦戦した際には切腹すると言い出すなど、尊氏を一種の躁鬱病では無いかと推測する向きもある。個人的に親交があった、禅僧の夢窓疎石(国師)は、尊氏の徳を評価した文章を残している。
[編集] 後世の評価
江戸時代に入ってから、徳川光圀を中心とした水戸学の歴史研究で「逆賊」という評価が下されてしまう。これには、徳川家が新田一門の末裔を仮冒したことが背景にある。新田一門を自称する徳川家にとって新田家の人物は名誉を回復すべき存在となり、逆に新田家や南朝・後南朝と敵対した尊氏など足利一門の人物や室町幕府の関係者は徹底的に貶める対象となったのである。
幕末には尊皇攘夷派によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件などが起こる。明治時代になって南朝が正統と認定されたことにより、尊氏たちを「逆賊」とする評価が固定化された。戦前までの国定教科書には「天皇に弓を引いた逆臣」として書かれており、斎藤実内閣の中島久万吉商工大臣が尊氏を礼賛した文章を書いたことにより職を追われるという事件もあった。
戦後になると価値観の逆転や中世史の研究が進み、尊氏に対しても「保守勢力を破り新時代を築いた英雄」という肯定的評価がなされるようになる。吉川英治は尊氏を主役に『私本太平記』を書き、平成3年(1991年)にはNHKで大河ドラマ化された。
なお、尊氏を逆賊とする論者は、後醍醐天皇との対立後に天皇から「尊」の字を取り上げられたとして、一貫して高氏と呼ぶことが多い。しかし、実際には南朝方はその後も尊氏と呼び続けていることが古文書で分かっている。大義名分論が実際の歴史を無視した一例といえよう。
[編集] 尊氏の肖像画
京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は尊氏をモデルに描かれたとして一般的に知られていたが、孫にあたる義満の花押が像の上部にあることや、騎馬武者の馬具に輪違の紋(高家の紋も輪違)が描かれているなどの理由から、尊氏ではなく足利家執事高師直、或いはその息子の高師詮を描いたという説が提示され、現在では尊氏説は否定されている。また、鎌倉時代に藤原隆信が描いたとされる京都・神護寺蔵の国宝・伝平重盛像は、等持院の木像との比較や、冠を留める笄(こうがい)が室町初期に流行した形状であることなどから、実は隆信とは別の作者が尊氏(同じく伝源頼朝像は直義、伝藤原光能像は義詮)を描いたものではないかとの説がある。広島県尾道市の浄土寺にも尊氏を描いたとされる肖像画が所蔵されている。
- 銅像:衣冠束帯姿の尊氏の銅像が栃木県足利市にある。
- 木像:京都府京都市北区の等持院所蔵。
- 錦絵:歌川芳虎の太平記合戦図(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)橋本周延の足利尊氏兵庫合戦図(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)共に福海寺所蔵。
[編集] 系譜
- 父:足利貞氏
- 母:上杉清子
- 弟:足利直義
- 足利尊氏
- 正室:赤橋登子
- 子:足利義詮
- 子:娘
- 子:聖王
- 子:足利基氏
- 子:頼子(崇光天皇皇后)
- 子:了清
- 子:娘
- 側室
- 子:竹若丸
- 側室(越前局?)
- 子:足利直冬
- 側室
- 子:英仲法俊
[編集] 史料
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室町幕府将軍 |
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尊氏 | 義詮 | 義満 | 義持 | 義量 | 義教 | 義勝 | 義政 | 義尚 | 義材 | 義澄 | 義稙(義材再任) | 義晴 | 義輝 | 義栄 | 義昭 足利氏 - 将軍家 |