少弐景資
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少弐景資(しょうに かげすけ、寛元4年(1246年) - 弘安9年(1286年))は鎌倉時代の幕府御家人である。北九州の名門少弐氏の一族。少弐資能の三男。
1274年(文永11年)の文永の役で、父の資能や兄の経資と共に元軍相手に戦った。このとき、景資は元軍の副司令官である劉復亭を矢で射止める大功を挙げたと言われている。弘安の役にも参陣して奮戦した。
1285年(弘安8年)、鎌倉で御家人の安達泰盛と御内人の平頼綱との間で霜月騒動という争いが起きると、景資は泰盛側に与して、泰盛の子の肥後の守護代であった安達盛宗に味方して筑前で挙兵したが、頼綱側に与した兄の経資の追討を受けて、翌年殺害された。これには兄弟の家督争いも絡んでいたという。