平頼綱
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平頼綱(たいら の よりつな、? - 正応6年4月22日(1293年5月29日))は、鎌倉時代の北条得宗家の被官(御内人)で、鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事である。平盛綱の子。北条貞時の乳母父。通称は、平新左衛門尉、出家後に平禅門など。法名は杲円(こうえん)。
頼綱の家系は平資盛を祖とするというが、疑問視されており、恐らく平姓関氏の流れであろうと考えられている。
得宗家の執事は内管領とも呼ばれるが、これは「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。
父盛綱が長崎平左衛門尉盛綱と長崎氏を称したことが近世の史料にあるが、同時代の史料にはそのような記述はない。ただし、盛綱・頼綱父子は、後に内管領となった長崎高綱(円喜)・高資父子とは同族である。 頼綱には、嫡子長崎宗綱(長崎平太郎左衛門尉宗綱)、次男飯沼為綱(飯沼安房判官為綱、飯沼助宗)、三男長崎頼基(長崎三郎左衛門頼基)、四男長崎高頼(長崎四郎高頼)の4人の子がいる。
幕府御家人で、元寇後の困窮した御家人の救済を目指した弘安徳政を推進していた安達泰盛と、御内人の利益を重んじ、御内人の中心に位置する得宗の権力強化を目指す頼綱は、政治路線をめぐって激しく対立していた。1284年(弘安7年)4月、執権時宗が死去し、息子貞時が執権に就任すると対立は更に激化し、1285年(弘安8年)11月、ついに鎌倉市街で武力衝突にいたる。これを霜月騒動という。執権貞時を奉じる頼綱はこの戦いに勝利して、泰盛一族と与同勢力は滅亡し、少弐景資ら泰盛の政治グループは一掃された。
この後頼綱は、しばらくは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが、1287年(弘安10年)に7代将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)。しかし、これは幕府内部に不満を呼び起こすとともに貞時にも不安視され、ついに1293年(正応6年)4月、鎌倉に大地震が起きた際に経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し頼綱一族は抹殺された。これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)という。
ちなみに、この地震を機に、正応の年号は8月に永仁に改元されている。
晩年は次子為綱(助宗)が、得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。
頼綱滅亡後、頼綱の叔父長崎光盛(長崎次郎左衛門尉光盛)の子の長崎光綱(長崎太郎左衛門尉光綱)が惣領となり、得宗家執事となっている。光綱は頼綱の弟あるいは甥とも伝えられる。権勢を誇ったことで知られる長崎高綱(法名・円喜)は光綱の子である。
[編集] 平頼綱という呼称について
鎌倉幕府草創の時に、初代将軍源頼朝が御家人に対して、例えば平景時(たいら・の・かげとき)といった「本姓」+「諱」の名乗りを禁じ、梶原平三(かじわら・へいざ)といった「名字」+「通称」の名乗りを求めて以来、非御家人の間にも名字を名乗ることが浸透していった。頼綱の一族は長崎氏だが、頼綱が生きていた時代に長崎氏という氏族があったり、頼綱本人が長崎氏を称したりしたことを示す同時代の史料はない。かといって頼綱が長崎とは別の名字を名乗ったという記録もない。そこで便宜上、姓である平を使って平頼綱と記すことが慣例となっている(「吾妻鏡」に「平新左衛門三郎頼綱」や「平新左衛門尉頼綱」とあることから、少なくとも、当時の同時代人の間で頼綱が平姓であると考えられていたことは確実である)。
なお、同時代の公家の著述では、御家人・非御家人を問わず、武士が「本姓」+「諱」または「官職」+「諱」で呼ばれていることが多い。例えば、「徒然草」には、安達泰盛が城陸奥守泰盛(城とは秋田城介のこと)という表記で登場する段、北条宣時が平宣時朝臣という表記で登場する段がある。さらに後の時代の「神皇正統記」の記述においても、北条政子は従二位平政子、北条義時は右京権大夫義時または単に義時、新田義貞は源義貞と書かれている。これは、朝廷から官位を得ている以上は朝臣であり、朝廷から与えられた姓を名乗るのが当然であるという、当時の公家の一般的な考え方を反映したものである。