尼港事件
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尼港事件(にこうじけん)は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港)の大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)及び日本人居留民が虐殺された事件。
パルチザンに対して一旦降伏した後、大日本帝国陸軍側が再度攻撃して敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。
のちにパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑になった。この事件による日本人犠牲者は約700名に上り、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共機運が強まった。日本陸軍がシベリア出兵を延長したのは、この事件によるものという意見もある。
過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した「サハリン部隊」とが連合したものであった。 (佐々木春隆著「韓国独立運動の研究」国書刊行会P461)
[編集] 経過
- 1919年夏
- ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派が尼港に潜入して工作を開始
- 1920年1月24日
- 過激派の使者が和議を申込むがそれを守備隊は拒否。
- 2月24日
- 過激派軍から休戦の申込み
- 2月28日
- 休戦交渉成立、しかし尼港に入った過激派は、協約を無視して反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、日本軍撃滅の準備を進めた
- 3月11日
- 過激派は守備隊の武装解除を要求。守備隊は機先を制して翌未明、過激派の主要拠点を不意急襲。しかし敵兵力ははるかに優勢で、激烈な市街戦となって戦況は逐次不利となり、大隊長以下大部が戦死、市内の日本居住民は老若男女問わず虐殺される
- 5月25日
- 過激派は日本軍の襲来を察知し監禁していた日本人と、残っていた反過激派の人々を惨殺し、市内の建物全部を焼き払って、西方のアムグン河谷の森林内に逃走
[編集] 関連
- 通州事件 - 「第二の尼港事件」と呼ばれた。
- 日本海賊史に名高い剣客「江連力一郎」の大輝丸事件は尼港事件を発端とする。