ニコラエフスク・ナ・アムーレ
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ニコラエフスク・ナ・アムーレ(ニコライエフスク・ナ・アムーレ、Никола́евск-на-Аму́ре、英語名 Nikolayevsk-on-Amur または Nikolayevsk-na-Amure)はロシア極東部、ハバロフスク地方のニコラエフスキー地区の行政中心都市・港湾都市。この町はアムール川が河口部に流入する地点から80km上流に位置しており、川の左岸(北岸)にある。ハバロフスクからは977km、コムソモルスク・ナ・アムーレの鉄道駅からは582kmの距離にある。人口は、2002年調査で28,492人。
アムール川流域は女真族などが住んでいた広い意味での満州の一部で、かつて清の領土であった。この町もかつては中国語で「廟街」(ミィアオジエ、 Miàojiē)と呼ばれており、サハリンなどとの毛皮貿易で栄えていた。
日本の探検家・間宮林蔵は1809年、樺太およびその対岸のアムール川下流探検の際に『東韃地方紀行』という記録を残しているが、この中で「フヨリ」と彼が呼ぶ町のことに触れており、これは現在のニコラエフスク・ナ・アムーレに一致するとみられている。彼は、当時清の黒竜江将軍の管轄下にあったアムール川の左岸を探検し、その中でいくつかの町を訪れている。(ロシア語の地図: Фуіори(フヨリ)の名が河口の左岸側に見られる)
19世紀半ば、ロシア人は清の領土だったアムール流域がほぼ手付かずで管理が行き届いていないことを知り、アムールを遡上しての調査に着手した。ニコラエフスク哨所は1850年8月13日、アムール川河口から遡上したゲンナジー・ネヴェリスコイ(Gennady Nevelskoy)らによって設置された。この駐在所は町としての資格を認められ、沿海州が設置された1856年にコラエブスキーからニコラエフスクに改称した。清のアロー戦争敗北後、外満州一帯は1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でロシア帝国に割譲され、この地もロシアの一部となった。
ニコラエフスクは1880年まで沿海州の行政の中心都市で、ロシア極東最大の港だった。このため、商業を目的に日本人など多くの外国人が暮らすようになり、世界各国の船が入港した。日本人はこの町を「尼港」と呼び日本領事館も置かれていたが、ロシア革命後の1920年には赤軍パルチザンによって日本陸軍軍人のみならず民間人も殺される尼港事件が発生、日本人犠牲者700人のうち民間人が半数を占めたため日本国内の世論は激昂した。
ニコラエフスクは1926年にニコラエフスク・ナ・アムーレと改称した。現在もニコラエフスク・ナ・アムーレはアムール川の主要港の一つであり、漁業や木材輸出などを行っている。