尾崎清光
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尾崎 清光(おざき きよみつ、1935年 - 1984年1月30日)は高知県佐川町出身の実業家。日本同和清光会最高顧問。えせ同和の黒幕であり、大物の同和事件屋として名を売った。
高知県高岡郡佐川町生まれ。暴力団に入り、20代から傷害や恐喝の常習犯として知られた。大阪で金融・手形割引や不動産会社を営むうちに元法務大臣西郷吉之助(参議院議員)の秘書グループに取り入り、西郷による手形乱発詐欺事件に絡んで兵庫県警に逮捕された。
のち帰郷し、高知県内の政財界や行政に食い込んで、農地転用許可や国有地払い下げに暗躍。自らも建築・土木・砂利採取などの事業を営み、公共事業や大手企業の下請けを一手に引き受け、「土佐の黒幕」と呼ばれて恐れられた。
1977年、高知県民文化ホールの工事を受注した大手建設会社への恐喝事件で逮捕。懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受ける。1978年に上京。全日本同和会に所属し、常任顧問の地位にあったが、内紛で脱退後、自ら日本同和清光会を結成。同和団体幹部としての地位や政財界へのパイプや暴力団幹部との繋がりを道具に使って行政を恫喝し、市街化調整区域など通常は開発の許可が下りない土地の許可を強引に取得して開発業者に斡旋[1]し、億単位の仲介料を荒稼ぎし、暴利をむさぼった。1億2000万円のダイアモンド入り腕時計や8000万円のブレスレットや最高級のスーツや靴で全身を飾り、3000万円のリムジンを2台乗り回して「歩く三億円」と呼ばれたのはこの時期のことである。
1984年1月30日21時50分頃、糖尿病で入院していた東京女子医科大学附属病院中央棟5階の特別室に見舞い客を装った3人組の侵入を受け、サイレンサーつきの短銃で至近距離から顔と背中を撃たれた上、背中からナイフで心臓を刺され、同日22時50分頃に出血多量で死亡。当時、クラブ経営に失敗し、暴力団金融への負債を70億円~80億円ほど抱えていたことから、彼の死には暴力団の関与が噂されたが、犯人が逮捕されぬまま1999年1月31日に時効を迎え、事件は迷宮入りとなった。
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[編集] 参考文献
- 五味武『修羅のペン ブラックの帝王犯科帳』(日新報道、2000年)
- 高木正幸『新・同和問題と同和団体』(土曜美術社、1988年)
- 宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』(日本文芸社、2003年)
- 「マスコミが報じない尾崎清光射殺事件の真相」(『創』1984年4月号)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 斡旋された業者中の一人に最上恒産会長の早坂太吉がいた
[編集] 外部リンク
- 宮崎学『突破者』第6章「銃弾の味」
- 衆議院会議録情報 第132回国会 予算委員会 第21号(1995年4月11日)
- 株式会社日清会(尾崎清光が創立した政治結社日清会の後身)