屈原
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屈原(くつげん 紀元前343年1月21日? - 紀元前278年5月5日?)は中国戦国時代の楚国の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが、受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
屈原は楚の公室系の宗族(広義の王族)の一人であり、屈氏は景氏・昭氏と共に楚の王族系でも最高の名門の一つであった。(これを三閭と呼ばれる)家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、左徒となった。
当時の楚は西の秦とどう向き合っていくかが主要な問題で、秦と同盟する事で安泰を得ようとする親秦派と東の斉と同盟する事で秦に対抗しようとする親斉派に分かれており、屈原は親斉派の筆頭であった。屈原の政治能力は当時の楚では群を抜いていたが、非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられ、同時に国内世論は親秦派に傾いた。
屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の謀略に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した(張儀の項を参照)。
その後、屈原は三閭大夫として政界に復帰した。秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。屈原は、秦は信用がならない、先年騙された事を忘れたのかと諫めたが、懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。
王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の令尹(丞相)に屈原が嫌いぬいた子蘭がなったために屈原は政界から再び追われて、江南に左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落した事で楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。後に屈原の無念を鎮める為、また、亡骸を魚が食らわないよう魚の餌としても、人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、これがちまきの由来とされる。
屈原の強烈な愛国の情から出た詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された。