山口瞳
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山口 瞳(やまぐち ひとみ、本名同じ、1926年(大正15年)11月3日 - 1995年(平成7年)8月30日)は、日本の男性作家、エッセイスト。
[編集] 生涯
東京市麻布区に生まれ育つ。小学校時代の同級生に元東急フライヤーズ投手の黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。兵役の後、1946年に鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されて、國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房勤務などを経て、1958年、壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後、文筆業に専念するためにサントリーを退社。「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回の連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』などが主な作品。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を巡る『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。
特に将棋には熱心であり、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んでもらい稽古をつけてもらっていた。段位は四段であった(のち昇段したという説もある)。対局で出会ったプロ棋士山田道美と飛車落ちの新定跡「瞳流位取り戦法」を研究・創案し、これを用いて血涙十番勝負では駒落ちながら当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分けた。
サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社後、東京郊外の国立に居を移し、この地が大変気に入って終生ここで過ごした。『男性自身』でも度々地元のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。
気さくな人柄で谷保駅前の居酒屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品。
筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』などで述べている。
[編集] 著作
[編集] 男性自身シリーズ(新潮社)
- 1 男性自身(1965)
- 2 ポケットの穴 (1966)
- 3 旧友再会 (1967)
- 4 父のステッキ (1968)
- 5 壁に耳あり (1969)
- 6 少年達よ、未来は (1970)
- 7 天下の美女 (1971)
- 8 変奇館日常 (1972)
- 9 変奇館の春 (1973)
- 10 隠居志願 (1974)
- 11 銀婚式決算報告 (1975)
- 12 元日の客 (1976)
- 13 巨人ファン善人説 (1977)
- 14 人生仮免許 (1978)
- 15 展覧会の絵 (1980)
- 16 卑怯者の弁 (1981)
- 17 木槿の花 (1982)
- 18 禁酒時代 (1983)
- 19 余計なお世話 (1984)
- 20 私本歳時記 (1985)
- 21 私の根本思想 (1986)
- 22 梔子の花 (1987)
- 23 還暦老人ボケ日記 (1989)
- 24 還暦老人憂愁日記 (1989)
- 25 還暦老人極楽蜻蛉 (1991)
- 26 年金老人奮戦日記 (1994)
- 27 江分利満氏の優雅なサヨナラ (1995)