島津久柄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津 久柄(しまづ ひさもと)は、日向佐土原藩の第8代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保19年6月21日(1734年7月21日) | |||
死没 | 文化2年8月13日(1805年9月5日) | |||
別名 | 万寿丸、又四郎(幼名) | |||
戒名 | 法林院殿前但州猛誉勇信大居士 | |||
官位 | 従五位下、淡路守 | |||
藩 | 日向佐土原藩主 | |||
氏族 | 島津氏 | |||
父母 | 父:島津忠雅、母:鳥居忠瞭の娘 | |||
妻 | 正室:島津重豪の義妹(島津貴躊の娘) 側室:酒匂氏 |
|||
子 | 三男:島津忠持、娘(久留島通同室)、 娘(九鬼隆張室) |
享保19年(1734年)6月21日、第7代藩主・忠雅の三男として生まれる。宝暦3年(1753年)12月11日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし明和6年(1769年)に佐土原大地震や城下町の大火事、安永7年(1778年)にも大地震が起こって大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も悪化した。このため、製紙業を専売化している。また、久柄には主君としての統率力が無く、そのために家臣団の間で天明騒動と呼ばれる権力闘争が起こった。このような中で天明5年(1785年)5月23日、家督を三男の忠持に譲って隠居し、文化2年(1805年)8月13日に死去。享年72。墓所:宮崎県宮崎市佐土原町の高月院。
|
|
|