島津忠昌
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島津 忠昌(しまづ ただまさ、1463年5月21日(寛正4年5月3日) - 1508年3月16日(永正5年2月15日))は島津氏の第11代当主。第10代当主・島津立久の子。官位は陸奥守。
1474年4月、家督を継いで当主となる。しかし若年で後を継いだため、島津氏内部で内乱が発生。さらに伊東氏や相良氏などからもそれに付け込まれて侵攻を受ける。忠昌はこれに対して1485年、伊東祐国を日向国飫肥城の戦いで破ったが、その息子による報復を恐れて1495年に和睦している。
忠昌は軍事よりも文学に優れ、1478年には桂庵玄樹を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた。また、琉球や李氏朝鮮とも積極的に通交し、貿易を奨励している。しかし1508年2月15日、突如として自殺してしまった。享年46。理由は狂気、もしくは島津氏の内乱に苦しんだ末の自殺とも言われている。後を長男の島津忠治が継いだ。法名は源鑑。法号は円室興国寺殿。墓所は鹿児島県福昌寺跡。
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