川野辺氏
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川野辺氏(かわのべし)は、関東の豪族。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の藤原魚名の流れを汲み、平将門を征伐した鎮守府将軍藤原秀郷の末裔にあたる。常陸国北部(常陸大宮市野口平字御城)を中心に勢力を有した。正暦2年(991年)藤原秀郷の子孫、通直が兄通延(太田郷地頭)とともに常陸国に移り、通直がはじめてこの地(川野辺郷)に城館を築城し川野辺姓を名乗るようになると300年にわたり、川野辺氏は、この地で勢力をもった。(南北朝時代には、一族をまとめる惣領家は分家であった那珂氏となっていく。) 建武3年(1336年)1月、南北朝の戦いで、南朝の総大将 楠木正家(楠木正成の甥)が、南朝の荘園があったことから瓜連城に入城し、この地で1年間、北朝方佐竹氏と激しく戦った。楠木正家に従い戦った惣領の那珂通辰と川野辺資鎮は、ともに敗れ、那珂氏・川野辺氏(分家の平沢氏・戸村氏も)の川野辺一族の殆どは自刃し、滅亡した。しかし、那珂通辰の子である那珂通泰と川野辺光計は、久慈川をさかのぼり山方町の秘境「高井釣」に落ち延びた。那珂通泰はその後、佐竹氏の軍門に下り、足利軍に属して石見国の戦いにて軍功をあげ、子孫が江戸氏を興すこととなる。分家からは那珂氏がわかれ、さらに那珂氏の支流から常陸国守護代となる江戸氏が派生する。川野辺一族(那珂氏・川野辺氏・平沢氏)の家紋は十六菊に一の字。(一族の英雄である那珂通辰が、建武2年(1335年)に足利尊氏が後醍醐天皇に謀反したとき、南朝方として兵を起こし、北朝方である佐竹貞義を甕ノ原で打ち破った。さらに北畠顕家にしたがって京都に上り、その地で足利尊氏と戦って手柄を立て、後醍醐天皇から「菊の御紋」を拝領した。)
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