平将門
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(築土神社より)
平将門(平將門、たいらのまさかど、延喜3年(903年)? - 天慶3年2月14日(940年3月25日))は、平安時代中期の武将。通称は相馬小次郎。
桓武天皇の子孫で、平氏の姓を授けられた、高望王(たかもちおう)の孫。鎮守府将軍平良将(平良將。たいらのよしまさ)の子。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衙を襲い、国司の金印を奪った事から朝廷から敵と見なされた。京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、新皇を名乗った。朝廷からの独立国建設を目指したが藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は築土神社、神田明神、国王神社等に祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ちと平氏一族の争い
父の平良将は、下総国佐倉が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる史料は無い。将門は地方より平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていた。
『将門記』などによれば、平氏一族の親族争いは、常陸国(茨城県)前国司の源護の娘、或いは良兼の娘を巡る争いとも伝えられている。935年2月に将門は源護の子・扶に常陸国真壁郡野本(筑西市)で襲撃されるが、これを撃退した将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進み、護の一族を伐ち、更に護の援軍として駆けつけた伯父の平国香も伐つ。一族の平良正は軍勢を集め、鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、将門は良正の軍も撃破する。反将門軍は平良兼を盟主に、国香の嫡子の平貞盛などの兵を加えて将門と戦うが、将門の奇襲を受けて下野国(栃木県)の国衙に保護を求める。将門は下野国国府を包囲し、一部の包囲は解いて良兼を逃亡させ、国衙と交渉して自らの正当性を認めさせる。
同年、将門に対して朝廷から平一族の私闘についての釈明を求める召喚命令が出て、将門は平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、937年4月に帰国を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。これにより、多くの軍馬を喪失すると将門は退却し、更に妻子も捕らえられた。将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出るが、朝廷は平良兼、平貞盛、源護らに対して将門追討令を出す。将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
[編集] 平将門の乱
この頃、朝廷への租税を滞納していた事により追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が将門に庇護を求めると、将門は玄明を匿い、939年、常陸府中(石岡)へ赴いて追捕撤回を求めるが、ここで将門軍は突如攻撃を受ける。将門は止む無く反撃して常陸介藤原維幾を捕らえ国衙を陥落させ、結果的に朝廷に対して反旗を翻すことになってしまう。将門の側近となっていた桓武天皇の子孫と言われる興世王の進言に従い、同年12月に下野、上野の国府を落とし、関東一円を手中に収めて天皇に即位、「新皇」を名乗り、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。
これに危機感を抱いた朝廷は、全国の民に将門の首を取った者は貴族とする旨の通達を出した。その2箇月後、940年に仇敵国香の息子、平貞盛と藤原秀郷との会戦中に、流れ矢に当たって死んだとされる。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのは、後述の東京大手町の首塚である。
将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。
なお、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされ、成田の成田山新勝寺はその言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。
又、築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受ける事が出来なくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。
大河ドラマ「風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をした。
[編集] 評価の変遷
中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祭られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。
神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には幕府により、平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
また、将門の朝敵としての汚名は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、除かれている。
なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。
明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして明治7年(1874年)には、平将門神は神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。
第二次世界大戦終結後は、逆に反天皇制ファシズムの時代的機運から、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった(北東北のアテルイも同様)。なお、昭和59年には平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。 最近ではより学術的な面からの研究が期待されている。
[編集] 伝説
討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ。」と言った。声は毎夜響いたという。そしてある日首は胴体を求めて関東へ飛んでいき、江戸に落ちたと言われている。その落ちた所が、東京都千代田区大手町にある将門の首塚とされる。この首塚は移転などの企画があると事故があったりして、威力を感じる人もいる。東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。
御首神社に伝わる話では将門の首は、美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。
[編集] 関連項目
[編集] 関連作品
[編集] 歴史ゲーム
- コマンド・ベーシック第1弾 『将門記~承平天慶坂東兵乱』、国際通信社