市丸
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市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)。
[編集] 来歴
長野県松本市生まれ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となる。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京し、浅草で芸者となり、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。美貌と美声を買われ、たちまち人気芸者となり、最盛期には一晩に10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった。
同じ東京の葭町の芸者・二三吉(後の藤本二三吉)が、レコード産業の発展によって、『浪花小唄』『祇園小唄』などで知られるようになると、レコード各社は新たな芸者歌手の発掘に躍起となり、美声の評判の高かった市丸にもスカウト合戦が繰り広げられた。結局、本家ビクターが市丸を口説き落とし、昭和6年(1931年)『花嫁東京』で歌手としてデビューした。同年、静岡鉄道のコマーシャルソングとして作られ、既に新民謡として知られていた『茶切節』を市丸の歌で発売すると全国的な大ヒットとなり、レコード歌手としての順調なスタートを切った。翌年の昭和7年にも、市川右太衛門が主演した映画『旅は青空』主題歌『青空恋し』を歌い、ヒットした。
昭和8年春、同じビクターの小唄勝太郎が『島の娘』『東京音頭』で国民的な人気歌手となると、流行歌の世界に鶯歌手ブームが起こり、コロムビアからは赤坂小梅、豆千代、ポリドールからは新橋喜代三、浅草〆香、ニットーからは美ち奴、日本橋きみ栄ら、続々と芸者出身のレコード歌手がデビューした。市丸は、こうした後輩に遅れを取らじと、同郷の中山晋平が新民謡として作曲した『天龍下れば』をなんとしてもヒットさせたいと、放送やステージでは必ず『天龍下れば』を歌い、執念ともいえる大ヒットに結びつけ、ビクターの看板歌手としての地位を確立した。市丸の人気は、レコード・放送にとどまらず、写真誌や広告、美人画のモデルにも起用され、広くその人気を知られることなり、歌手業に専念するため、芸者を廃業し、柳橋に自宅を建てて、浅草を離れた。
昭和10年前後、人気を二分した勝太郎とは、作詞家の長田幹彦に「情の勝太郎と智の市丸」と言わしめ、マスコミは「市勝時代」と呼んだが、そのライバル意識はお互いに相当なもので、市丸がメインの特集には「市勝時代」、勝太郎がメインの記事には「勝市時代」と書く配慮を見せるほどであった。着物や出演料などあらゆるところで勝太郎と張り合い、当時のビクターの社員を相当悩ませたという。事実、芸者歌手の売り出しに反発を感じた音楽学校出身の歌手が、待遇改善を求めてストライキを行ったほどである。
『濡れつばめ』『千鳥格子』『流線ぶし』『峠三里』といったヒットを飛ばす一方で、トーキーの登場によって、映画界からも声がかかり、昭和9年PCL映画『百万人の合唱』『さくら音頭』、昭和11年JO映画『小唄礫』、昭和18年東宝映画『伊那の勘太郎』などに特別出演している。日中戦争が勃発すると、慰問団の一行として中国大陸にも赴き、前線の兵士を喜ばせた。ある慰問先で、酔った将校が市丸に対して、執拗にお酌を迫ったため、気丈に断ると、軍刀を抜き切りかかったが、「大和撫子としての最期を飾りたい」と足袋を履きなおすと、その形相に恐れをなして、将校は諦めたという。
戦後、アメリカ文化の流入で日本調の歌手の活躍の場が失われてくると、市丸は、当時ビクターとも契約をしていた服部良一に「ブギウギを歌わせて欲しい」と作曲を依頼。昭和24年、服部の手による『三味線ブギー』が発売されると、この曲のために名古屋西川流家元西川鯉三郎に振り付けを依頼、その手踊りを交えてステージで歌い、再度人気歌手としての脚光を浴びることとなる。昭和25年には、古賀政男、二葉あき子、霧島昇らと渡米し、ハワイをはじめとして、アメリカ各地で公演。在米邦人を中心に、市丸の人気は絶大なものがあった。その後も、『雪のブルース』『恋は銀座の柳から』『三味線ワルツ』といった流行歌のヒットも続いている。
昭和30年代に入ると市丸は放送開始間もない民放のテレビ・ラジオにも積極的に出演し、主に小唄や清元といった伝統的な邦楽の分野を現代風にアレンジして取り上げ、小唄ブームを起こすこととなる。昭和35年、歌舞伎の中村勘三郎 (17代目)に許され江戸小歌中村派を復興し、17世家元を襲名。小唄、端唄、長唄、清元から、俗曲、民謡、歌謡曲と市丸のレパートリーは実に幅広く、邦楽番組には欠かせない存在となっていった。歌手としての後輩の面倒見もよく、榎本美佐江、神楽坂浮子、神楽坂とき子といった後進の指導にもあたった。その精進ぶりが認められ、昭和47年紫綬褒章を受章している。 また長年彼女の相三味線を務めた静子は実妹である。
昭和40年代の懐メロブームにおいても欠かせない存在として、往年のヒット曲を披露。テレビのカラー放送が始まってからは、テレビ映像に映える衣装の色・柄などを徹底的に研究しテレビ局の技術部をも唸らせた。この頃には、戦前にライバルとして競っていた勝太郎とは、赤坂小梅の取り成しによって完全に和解。先に叙勲された勝太郎の記念パーティーにも駆けつけ、「勝っちゃんがいなかったら、私はこんなに頑張れなかった」と賛辞を述べ、東京12チャンネルの番組では、勝太郎と並んで『東京音頭』『瑞穂踊り』『さくら音頭』などを一緒に歌っている。 また勝太郎の病床にも見舞いに訪れ「あんたがいないと張り合いが無い」と励ました。
昭和56年、勲四等宝冠章を受章。ひたむきに芸の道を歩み続け、平成8年10月、卒寿の記念と、弟子である中村市之輔の江戸小歌中村派18代家元襲名を兼ねて、弟子たちと開いたパーティーに出演し、弟子らと共に「春吉野」を披露したのが公の場に出た最期になった。8年暮れに体調を崩し、平成9年(1997年)2月17日に呼吸不全で死去した。
「死ぬまで現役」が口癖で、66年の歌手生活で吹き込んだ曲はのべ1700曲にのぼる。
[編集] 代表曲
- 『茶切節』(昭和6年)
- 『濡れつばめ~お小夜恋慕の唄~』(昭和8年)
- 『天龍下れば』(昭和8年)
- 『峠三里』(昭和10年)
- 『伊那節』(昭和8年)
- 『天龍二十五里』(昭和18年)
- 『三味線ブギウギ』(昭和24年)
- 『恋の長崎』(昭和25年)
- 『雪のブルース』(昭和25年)
- 『恋は銀座の柳から』(昭和27年)共演:灰田勝彦
- 『瑞穂踊り(再)』(昭和23年)共演:波岡惣一郎、鈴木正夫、喜久丸